『加澤記』北條氏直出張矢澤禰津手柄之事附割田下総馬乗捕事

本文

天正十三年酉九月、北條氏直沼田へ出勢し給ひける起りを尋るに、織田信長公存生之内、家康公氏政と御相談あつて、甲信兩國は家康公、上州は氏政兩人手柄次第掌握可致との約束なりけるに甲信は家康公に屬しけるが、上州沼田数年氏邦を以て責けれども、真田要害堅固にして手にいらず、漸く中山尻高森下長井の城攻とり、沼田本意なきによつて、九月廿一日北條左近太夫平氏直、陸奥守氏照大將にて、相随ふ人々には足利新六、小山宇都宮、高山遠江守、内藤大和守、長尾新五郎、長西五郎、布川彌次郎、皆川山城、小幡上総介、大導寺孫九郎、太田、大森、熊谷、倉賀野、南牧、西牧、市川黨、大胡、阿久澤、桐生、黒川、山上、善の隼人、猪股能登守、矢部大膳、成田下總守。先陣は北條安房守氏邦、同左衛門佐氏能、都合五萬餘騎。殿りは松田尾張守、同左馬之助、太田安徳齋、三萬八千餘騎にて前橋に御着陣あつて勢を二手に分、一手は氏照大將にて小山小幡

内藤倉賀野南牧西牧市川黨矢部。先陣は長尾左衛門輝景、二萬餘騎にて中山に着陣す。氏直は氏邦を先陣にて殿りは松田尾帳守、其勢三萬八千餘騎にて本陣を鈴ヶ嶽の麓に被居、氏邦は阿曾の要害に着陣す。矢澤薩摩守聞給て此度は關八州を引受て相戰ん事、弓矢取ての名利也と悦び、先手合に猿ヶ京の城を可攻落とて、金子渡邊に先陣長瀬伊賀守と定められ、三百餘騎差添られければ、兩人不日に押寄ければ、栗澤肥前守は南方の大敵倉内近邊へ押寄ると聞、暫は心安しと油斷したる處へ、不意に押寄られ、一戰にも不及して小性一人、長尾伊賀守が□女を人質に出しける、依之兩人本望を遂げ、人質を請取、矢澤殿へまいらせければ薩州門出よしと喜び給ひ、南方の大敵をば表裏を以て可討とて、先要害を堅むべしとて城外へらんぐひ、さかもき結ひ、雑兵共に二千に足らさる小勢なれば、敵寄來らば人三四百人も出て合しらひ、寄手退窟したる處を討取べしとて、兵

粮澤山に貯ひ、薪木に至迄不足無して待掛ける。北條は足輕せりあひもせず、唯在家を放火しける由聞へければ、領分百姓出家社人まで不残倉内に走集て籠城す。城に聚る人数男女共に五千餘人なり。上田にて昌幸公敵を引請籠城し、吾妻も沼田に籠城して、中山に大勢陣取ければ加勢する事ならさりける。矢澤きつと工夫して常田金子に地下人一千餘人差添、城より出し、すわまの紋付たる旗さゝせ、南胡桃の方へ遺しければ、猪俣が物尾の者是を見て、矢澤今城を明退と云ければ、猪俣三千餘騎を卒し、矢澤北くるぞ逃すなと薄根川原まで追かけける。其時渡邊榛名の森に隱て控たりけるが、既に薄根川を越え、武尊の社四釜の邊へ敵過たりける頃、森の内より五百餘人後をつけ、猪俣のがさじと切てかゝれば、思ひの外の伏兵に出逢ひければ、やがて取て返しければ金子も引返し切て掛る、猪俣前後に敵を受、手勢二百騎ほど討れ、殘兵散々に成て鎌田の城へぞ引返

す。此由氏邦聞給ひて、明日は惣勢を以て攻べしとて中山へも衵圖しければ、矢澤も此由を考て、川田表へ禰津助右衛門尉を向られけるが、折節水まさり利根川を渡すべき様無して、相圖の使はなかりける、禰津は梶ケ瀬を舟を渡し、無程川田の城にぞ着にける。同月廿九日辰の一天に、氏邦先陣として一萬五千餘騎、田北の原へ押寄たり。矢澤鳴りを靜て待うけゝれば、敵城を十重二十重に取巻、鯨波をとつどあげにける。矢澤兼て計りし事なれば、諸方の木戸口邊にて薪澤山積置火を爲焚、敵木戸口へ押寄、堀の内へ乘入、唯一時に屏打破り矢澤を生捕にせんと罵る、取分□□の門へ押寄る。長尾の案内者に參りたる矢野兵部左衛門は、岡谷平内、上原淺右衞門、塚本と戦ひ岡谷一人は討れける。其時焚立たる炭の火を、百姓の役に板にてなげ出しければ寄手不叶して引退、其時城中より二千餘人一度に切て出ければ一萬五千の兵色めきける程に、氏邦釆配を振て引な

引なと下知せられけれども大勢の引立たる事なれば耳にも入れず、白井の原ヘ一時に引上たり。此時片品川へ流れ、或は沼須久屋の岩より揉落され、手負死人数を知らず。北條陸奥守物見を出し見せられけるに倉内に軍有と告たりければ、やがて二萬餘騎の兵を引卒し、長尾左衞門先陣にて子持山峠を越へ押寄る。禰津助左衛門尉山名主水は、居城の女童は倉内の城へ籠置、旗少々立置て大竹の要害に籠り、鳴をしづめて控ければ、敵雲霞の如く山谷を動し、川田の城を押取巻、鯨波を作りけれども城内に人一人も居ざりければ、長尾もあきれて引返す。處に大竹に籠居たる處の兵卒切て出、火水になれと戦ひける、長尾も案に相違し手の者多く討れ、中にも牧の彌六郎、神庭入道返し合戦ひけるが、深山大木茂りし故、幾萬騎籠たる共知れず、大將陸奥守が本陣薄

根の原も知れざる様に方角失ひければ謾に馬に鞭打引退く、山名主水は此度は我會稽の耻を雪んとて五郎澤の奥迄追かけ、小野勘五郎と戦ひ居る處に、臥木の陰より鐡炮にて中身を打拔れ、五郎澤の草葉の露と失にける家の子深津和泉、鹽野下野、死骸を肩に引かけ、光徳院の舊跡に墓をつき、孝養をぞ盡しける。父信濃守歎き給ふ事限なし。中山の寄手昨日おくれを取し事を無念に思ひ、陸奥守人々に向ひ宜ひけるは、かほどの切所とは不知、大勢一度に取掛し故勝利を失ふなり、明日は小勢を以て切崩すべし、川田の勢を聞に三百騎には足らさる由、明日の軍勝利必せりとて、長尾左衛門を先手とし、深山(一に深谷に作る)の城主高山遠江守、其外矢部大膳

赤見山城、二千餘騎、子持山の嶺を越て被寄。多目周防守は二千餘騎、権現嶺より小山倉賀野小幡二千餘騎、不動嶺より被寄たり。不動嶺ロヘは鈴木主水、中山九兵衛出向ひ、火花を散らして戦ひけり。雨乞山へは發知圖書、同左衛門、師大助、渡邊左近向ひ戦ひける、子持山嶺へは禰津助右衛門走向けるが、今日は薄根原へ出向ひ被相待けるが、敵峠を下る旗色見へければ、歸りを討んと思ひ、横子の久保に控へて歸りを討んと待居ける敵は大竹川田の城を心かけ押寄けるが、人一人も無かりければ、今日権現嶺口の防きのため出づらん、我等は詮なき方へ向ひたりとて引返す處を、能き時分と心得て、横子の澤手高尾平の茂りの陰に隱れ居て、矢部大膳が真先に進んだる和泉守が真向を鐡砲にて打抜ければ、矢部長尾案に相違し、十方を失ひ、上を下へと返しける處に、木陰より鯨波を作り鐡炮打かけ、矢射かけ、切て掛れば、矢部長尾か二千騎の兵、崩立てそこかしこの山上大木の内へ馬を乘入、つたかづらに纏はれ、太刀を捨て、討るゝ者数を知らず、兩將跡をも見ずして北へ歸る、禰津十文字を以て追かけ突立ければ、続て深津次郎兵衛、同半左衛門、小保方兵部、見城、長井、小林、石上、平井、田中、大武追かけ分捕したりける。助右衛門尉餘り長追し給て、首長原にて長尾の臣牧彌六郎、野村、飯塚、石田、大島等五十四人に取圍まれしが、朽木によつて戦ひしが、晝よりの合戦なれば氣つかれ、既に危く見えける處へ、家の子小林文右衛門、深津次郎兵衛、同半左衛門、同筑後驅付、敵二人討取、残兵をば四方へ追散し、凱歌をつくり悠々と引返す。此日敵八十餘人討取、味方は纔に十餘人討れ、三千餘人手負たり。此由早速倉内へ注進しければ、薩州不斜悦び則ち八十餘人が首を伽藍堂の原に掛置たり。北條陸奥守が二萬の軍を、僅か三百騎にて切崩したる事、昌直の武勇の盛なりし故なりと、諸人稱歎しける。権現嶺不動嶺の寄手も悉く勝利を失ひ、鈴木中山も首三十討取、發知兄弟、渡邊左近も首三十五討取、同日に注進す。氏直は小城一つに関八州の軍兵を走向、空く数日を送る事、父氏政の御前、且は隣國の聞へも如何なり、自分倉内へ可寄と軍評定し給ひけると風聞し、白井の原に小屋掛、赤旗白旗數多立幕打廻し、動搖する事限りなし、忍を入て見給ふに、関八州の城主以飛脚申入候も有、或は以使僧申入もあり、色々さゝげ物美を盡したる事と見ゆと申ける。爰に吾妻の住人割田下総守とて勇猛の兵あり、力萬人に勝れ、第一忍の上手古今無雙なり、割田傍輩に語りけるは、比日敵陣へ様子見に忍入しもの有と聞こそ面白けれ、我は貧窮なれば馬物具も見苦し、明日白井の原の敵陣へ行て、馬鞍奪取て我物にせんと、膚に鎧を着、くさり頭巾をかむり、上に簔を着、二尺五寸の刀を藁巻にし、馬大豆をつとに入持、寄手の小屋の前を馬大豆めせませとて通りける。松田尾張守が小屋の前にて若侍二三十人寄合、馬を取出し庭乗してぞ遊びける、割田通り懸り彼藁づとを負ながら見物す、若侍是を見て商人も馬を好侯かと申ければ、割田大豆は壹升鐚十五文と申せば、いや豆の事にてはなし、馬をすくかと云事也と申せば、少し馬喰を仕候と申せば、然ば馬の事も知たてあろう、此山中にて此様なる美しき馬鞍見たる事はあるまじ、近ふ寄て見よとて皆々どつと笑ひける。割田心に思ふやうは、黒の馬に金幅輪の鞍おきたるこそ松田殿の召馬と見えたり、是を奪はんと思ひ、彼馬のきわにより馬取にさゝやきけるは、見事の鞍かな、此鞍置て少し乗て見申たきと申ければ、若侍是を聞き奇特の申分なり、彼奴を此馬に乗せ、跡より鞭を打迷惑させて見物し、小田原への土産噺にせんとて彼馬に乗れと申ければ、割田僞て恐るゝ気色にて、おそろしやあの馬に乗リ如何せんとぞ申ける、若侍馬取に申付、無理に乗せよと云ければ仲間共走寄、割田を無理に乗せければ、やがて鞍にしがみ付、やれやれ頼む頼むと云ければ、其時仲間共一度にむちを以てたゝきければ聞ゆる名馬の事なればやがて飛出す、此時割田思ふやう、此儘乗取らば盗賊といはれんも口惜し、尋常に名乗で乗取んと、軈て馬を乗戻し、若侍の間十間程脇へ乗寄せ、馬大豆をなげすて、藁包の中より刀取出し腰に横たえ、馬上にて大音聲にて我は真田安房守が臣割田下総守重勝と云者也、只今能馬賜り忝存侯、御禮は明日戦場にて可申、松川殿へはよろしく頼入と云捨、鞭打てにげ出しける、若侍共は唯呆れ果、これはこれはと跡より追かけれども、兎かう云間に十四五丁も後れければ本陣さして引返す。割田無難片品川を渡り、金剛院の地内を乗通り、さひかち坂を乘上げ、靜に城中へぞ歸りける。右奪取し金幅輪の鞍をば昌幸公へ献じける。扨割田が振舞は古今希なる事也迚、敵も味方も感じける。氏直如何被思召けるにや、惣攻の儀はなくして九月廿九日陣を拂て歸りける。猪俣は長井坂に在城す。赤見山城は中山に在城す。此時氏邦、矢部に感状被出ける文に云

 今度沼田宿城於上戸張兩人高名、殊強敵逢鎚手数ヶ所被負、手柄之勝負、誠無比類侯、

 御旗下御陣と申、即猪俣を以申上候、中にも其方走廻之儀、及御披露候之處、

 不淺御褒美之上意候、追而御感状可被下之由

 被仰出候問、可彼存過分候、恐々謹言

   九月廿八日    氏邦在判    矢部兵部右衛門殿 此己下闕文。

引用元

『加沢記 : 附・羽尾記』 出版者:上毛郷土史研究会

(国立国会図書館デジタルコレクションから)

※本書籍の著作権保護期間は満了しています。