『加澤記』川場合戦之事

本文

此事倉内に無隱、御供之人々被討殘たるは倉内に立歸り始終を申ければ恩田越前守を始め以ての外驚き早鐘を嗚しければ下沼田豊前守、発知刑部太輔、久屋左馬允、岡谷平内、石墨兵庫助、宇曾井係八、山名信濃守、小川可遊齋、名胡桃の鈴木主水、発知圖書、荻野封馬守、師大介、高野九類満、小屋彌惣、高野但馬、真下但馬、深津、小野、古野、小保方、戸部、戸□、七五三木、増田、高橋、鶴淵、星野、吉澤、桑原、小林、中島、金井、小池、小淵、青木、杉木、後閑、町田、小野、津久井、此人々を先として都合一千三百餘人、駿馬にむち打て同日の晩景に馳集り軍評定しきり也、翌七日の辰の一天に川場の館へ押寄けり、川場より注進に歸参ける吉澤と云し商人に侍一人御添有て御曲輪の御前より前橋へ御文を被遺ければ彌五郎殿不易被思手勢二百餘騎大胡殿を其日の大將に定め翌八日の未の刻斗に前橋を打立て沼須へこそ着陣す、萬鬼齋御父子兼て被思けるは彌七郎殿生涯し玉はゞ一族家老者迄も景義へ思付ん事無疑、金子は城に控たりければ一軍にも及まじ、若し彌五郎殿より意恨軍兵遣し給ふ事あらば長井坂の用害にて待請ば何萬騎にて来るとも物の數とは不思、定而美濃が来るらめとて秋塚の五六の岩の上に物見を出して待給けるに、案に相違して発知久屋山名の人々を先として沼田相傳の左巴の大旗真先に進せ、をめき叫んて押寄たり、物見の侍御館へ此由申ければ平八郎殿不安思給て唐櫃の蓋をあけて緋綴の鎧に鍬形打たる甲を取出させ泰重が打たる四尺八寸の沼田打の大刀、二尺七寸の打刀、九寸五分の鎧通し十文字に横へ七寸餘りの幡谷黒と云馬に御先祖道安齋の自作の銀幅輪の鞍置せ三尺五寸の大長大刀打かたけ、しんかりには萬鬼齋黒糸綴の鎧を被召、白布にて鉢卷して長身の手鑓打かたけあし毛の馬に朱鞍を置せ打乗、手勢纔に三百餘人前後に是を爲圍、横塚の原へぞ出向給けり。萬鬼齋景義に向て曰けるは敵大勢なれば掛合の軍叶がたし表裏を以て可打とて三百人を三手に分け景義百餘人を率ゐ虚空蔵山に陳しヽヽ百餘人の兵をば鹽野井又一郎に相添、生品の武尊の森の内に隠し置、自ら百餘人を引率してヽヽヽ(此間一行程缺文)にも及べき様には不見けり。寄手の先陣川田城主山名信濃守嫡子小四郎、上川田城主發知図書介、荻野對馬守相隨者には高野車、小屋彌惣、師大助、下ノ十左衛門、關上甚介、生方半左衞門、神保大蔵、中島主税介、戸部左馬允。中村式部、高橋右近介、深津次郎兵、三百餘人真先に進て驀直に成て萬鬼齋へ討て掛る、後陣の勢は愛宕山に扣て見物す、其比萬鬼齋七十餘に渡らせ給けるが大音聲に仰けるは先陣に進たる旗の紋を見るに白旗に根笹は山名と見へたり、赤地にカヤデを書たるは發知図書と見へたり、重代の家人又は惣領の家に向て弓を引事、天罸遁れ難し早く甲を脱ぎ旗を巻き降人に来れかしとのたまひける、流石大強の人々也けれども相傳の大將顕泰にてましませば弓鐵砲を可打掛様もなく猶豫してさながら進む気色なし。後陣に扣へたる發知岡合久屋が勢横合に掛らんとて五百餘人にておめいて掛りければ森の内なる鹽野并一陣に駒駈出し久屋左馬允が扣たる陣の中へぞ駈入たる、元より一族の事也ければ互に耻てや戦けん、切先より火花を散し鎬を削り鍔を割り未刻斗より申の下まてひらりくるりと闘ひける、馬上の太刀打是ぞ軍の見物と鳴を靜て扣たり。互手きゝの名人なれば手も負ずして相引に引てぞ本陣へ歸りけり。俄に大雪降來、諸勢こゝえ人馬もすくみければ互に引て其日の軍は止にけり。終夜雪降、翌八日も終日雪降ければ軍不成して空しく愛宕山の邊に小屋を掛扣けり。扨金子美濃は何とか思案したりけん七日の日の暮方より風気なりとて宿所に引籠て此評定に不出合けり。軍散て聞しに一心に愛宕を祈念してぞ居たるとこそ聞へし。抑も金子と云者名主職の時より常に愛宕を念じけるが顕泰公へ召出されては猶以て怠事なし、天文年中に倉内の鬼門横塚と云所に愛宕を造立したりける、共本尊今世に海應山金剛院に安置し給なり。

引用元

『加沢記 : 附・羽尾記』 出版者:上毛郷土史研究会

(国立国会図書館デジタルコレクションから)

※本書籍の著作権保護期間は満了しています。