『加澤記』真田安房守昌幸公沼田御歸城並藤田能登守領知仕置之事

本文

天正九年辛巳六月昌幸公沼田へ歸城に付、藤田所へ勝頼公より御書を被下ける。

 安房守歸城候間一筆申候、近日關東中無珍義候哉、有相替説者注進尤に候、乃弓十張進之候、委曲可有真田口上侯、恐々謹言

  六月七日  勝頼 朱印

   藤田能登守殿

藤田信吉は領地片品郷之内沼須之城賜りけり。沼須より平出岩室ヽヽ高平生枝古語父生品發知秋塚奈良原地三

百貫文之地也、奮功の家臣等に恩賞を宛行けり。奈良秋塚之郷は家臣我名修理介に賜ふ。

  知行方

  貮拾貫文  古語父之内

 去秋甲州え忠信之砌、最前被抽諸人、神妙之奉公令感悦侯、就之右之地出置候、向後巌密御軍役可被走廻候、當所本意に付而者一廉可引立者也、仍如件

  天正九年辛巳六月十六日  信吉 判

   塚本舎人助殿

  知行方(知行方等記入を闕く)

 去秋甲府え忠信之砌、神妙之奉公令感悦候、依之右之地出置候、向後御軍役可勤之候、在所本意に付而者一廉可引立者也、仍如件

  年月日(同上)  信吉 判

   木内甚五左衛門殿

  知行方

  貮貫文  原地之内

右之地出置候、向後者不及他事一圖奉公尤に候、然而相當之御番等可致者也、仍如件

  天正九年辛巳八月七日  信吉 判

   七五三木佐渡守殿

此外知行それぞれに宛行、其身は倉内に在城し妻子方は沼須の城に被居ける。去年勢田郡米野邊まで切隨給て不動山乗捕給し時、忠節之侍に知行被下ける。先年不動山乗捕、則河西へ被退之條、忠節無比類候、然而倉内本意之上、望之地雖可相渡之、沼田過半藤田能登守方、依忠勲被下置條無是非候、武上御本意之上、一所申成可出置候、先爲堪忍分於南雲之内信州積二十貫文所出置候者也、仍如件

  天正九年辛巳七月十日  昌幸 判

   須田新左衛門殿

宮田衆十一人一所に川西へ退出に付爲其褒美、屋鋪分被下置人々。石田主計佐、同平左衛門、原澤惣左衛門、狩野玄蕃允、須田新次郎、同與右衛門、同久次郎、同甚杢、狩野主水佐、持木藤右衛門、新木主税助

 須田新左衛門、狩野左近助忠節之砌同意、川西へ被退之條忠節無比類侯、然而倉内御本意之上者一所雖可相渡候藤田能登守方依忠節沼田過半被下之條無了簡候、如何様武上御本意之上、必一所申

  成可出置候、先爲屋鋪分右拾壹人信川積五十貫文所、可出置者也、仍如件

  年月日(同上)  昌幸 判

此外忠節之族恩賞被宛行長井坂の要害に恩田越前守。下沼田豊前守。米野の用害に須田加賀守。鎌田の城に加藤丹羽守。阿曾の用害に金子美濃守。小山の城に北能登守。名胡桃に鈴木主水。上川田に發智図書。川田に山名主水(是は信濃守と云男が武田御領分たるに仍り如此)越後の押の爲め新巻の用害に鹽原源太左衛門、澤浦隼人。箱崎に原澤大蔵。山口式部、神保大炊介、小池右馬之助、森下又右衛門。湯檜曾清水越の爲番安部彦次郎、内山市左衛門。犬居田の用害に鈴木與八郎、同主税助、石倉青柳、富士の神主鈴木駿河太夫。中山に中山安芸守、同右衛門父子、平形丹後守。尻高は尻高左馬介、同源三郎父子、村上出羽守、段々被仰付、其年は岩櫃にて御越年也。

引用元

『加沢記 : 附・羽尾記』 出版者:上毛郷土史研究会

(国立国会図書館デジタルコレクションから)

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