『加沢記』沼田領堺目之民令退散事

本文

天正十四年戍春、近年北條御出馬にて民悉困窮、就中堺目之民農業可仕付様なく、大半餓死に及ければ上田より兵粮米運取、矢澤配分し給て農民はこぐみ給けるが、かゝりける處に中山の城に赤見山城守、去る午半より在城して川田表へ人數出、早苗を踏散、麥作を苅ければ民安堵の思を不成、餓死する者多かりけり。去年九月山名主水、子持山にて打死ければ父信濃守は隠居して有けるが、二男彌惣に被預て倉内に被籠、川田の城は禰津助右衛門に給りける。助右衛門尉は倉内北條曲輪に被居、川田の城には家の子小林文右衛門を被差置て山名が家の子深津和泉、鹽野下野をぞ被添ける。其外丶丶丶丶出羽、金井圖書、生方ヽヽヽ、同兵部、ヽヽヽ深津ヽヽヽ、へ平井加兵衛、田中源之丞、同惣右衛門、笛木、星野、深津半左衛門、ヽヽ五郎左衛門、見城又左衛門、同儀右衛門、見城右馬介、平井、藤五郎、星野ヽヽヽ、鈴木、今井、石上等本領を賜て其儘川田に被差置ける。猶も赤見、人を出し小逼合不止ければ、小林文右衛門工夫を廻し、赤見が與力中山、先方侍平方丹波、平方和泉守に深く知音して赤見殿と和睦して互に刈田は不爲ければ農民安堵の思ひをなしたれば、此由助右衛門殿より昌幸公へ被申上ければ文右衛門方へ御證文を被下ける、其文に日、

此巳下五六行不見

引用元

『加沢記 : 附・羽尾記』 出版者:上毛郷土史研究会

(国立国会図書館デジタルコレクションから)

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