『川田村誌』戦国時代と川田氏

本文

 後期沼田氏、即ち三浦沼田氏が、第十二代顕秦、第十三代朝憲になつた頃、室町幕府の威令は、応仁の乱を境として急速に衰え、諸国に群雄の割拠する時代となつた。この頃、川田の城には、沼田氏の支族川田氏が居つた。東国に於ける雄将は、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、相模の北条氏綱、氏康等で、沼田氏は小勢力のためこれらの英雄に拮抗する程の力がなく、常にこれら諸雄達の争奪地であつた。永禄二年(一五五九年)、沼田城主萬鬼斉顕泰が、上杉謙信に服してから、しばらく上杉氏の支配下にあつた。永禄十二年から城代をおいて沼田を治めたが、謙信没後、北条氏の支配を受けるようになつた、天正六年(一五七八年)である。武田氏も亦、虎視眈々、沼田城をうかゞつて居たが、重臣真田昌幸が兵を率いて侵入し、屢々北条氏邦と戦を交えたが、天正八年には、遂に真田氏の勝利に帰し、武田氏の支配に入ることになつた。その後織田信長の支配が短期間存在したが、その間、沼田平八郎景義の復帰騒動などがあり、遂に武田氏から独立した真田氏が、沼田領主たるの地位を確立した。この頃川田に於ける主なる出来事は次の通りである。

 沼田城主第六代景文の子に川田四郎景信というものがあり、本村五反田の地に、川田城を築いて、沼田城西辺の備えとなつた。二代信光、三代信清、四代光清、五代光行とつゞいたが、天正九年(一五八一年)沼田氏の滅亡についで滅びてしまつた。

 上川田の北城に、発智氏という沼田氏の支族が居つて、真田氏のために滅ぼされ、川田氏と運命を共にしたが、伝えられる平将平の子孫という発智氏は、これであると思う。川田氏も、発智氏も、小城であるため、屢々外敵の攻略を受けたが、其の都度再興したのにこゝにその終末を告げたのである。これについて「加沢記」の記事及伊与久義平治氏の研究を次に掲げる。

 

 景信は信光に城を任せ、剃髪して隠居し、天台宗の修験者となり利生院と号した。天正九年三月十日真田昌幸は、沼田城を攻略すべく、自ら主力の大軍を率いて、新治村当時吾妻郡久賀村大道峠を越えて攻め込み、又支隊は子持山麓の中山峠から進入し一挙に川田の小城を屠り沼田城に迫る予定で、川田城に殺到した。当時川田城には、城主光清父子の外一族郎党七十五人しか守つて居らず、もし敵の攻め寄する事あらば、合図によつて沼田から救援に来る事になつておつた。所で約二千五百と云う、真田の大軍が雪崩るゝ如く、押し寄せて来ると云う事を、物見の兵が告げて来た。これに依つて城中俄に騒ぎ立ち、直ちに合図の烽火を打ち上げ、沼田に救援方を報じたので沼田城兵はスワ一大事と急ぎ利根川べり迄繰り出して来たが、折りから雪解の増水で、渉ることが出来ず徒に対岸の火災視するの止むを得ざる状態であつた。然し中には戸鹿野を迂回する兵もあつたが、此時城主光清は城に火を放ち、炎々と立ち上る煙の中を遁れ、宮塚の郷士、深津長門の家に潜入し、長子光行は従兵に助けられ、附近の利生院にかくまつて貰い辛うじて敵の目を眩ましたが、身に数ケ所の重傷を、負うていたので手当をしたが間もなく死亡した。城兵は切先を揃えて打つて出で、大いに奮戦したが、衆寡敵せず、悉く討死した。しかし敵にもこれに倍する死傷者が出来たと云う。

 城兵の首級は、伽藍堂に梟首されて悽惨を極めたと云う。此伽藍堂は村の西南子持山の麓の老杉古松欝蒼としてよく三千の兵をかくもうに足る要害の地であつた。かくして川田城は遂に落城したのであつた。之れを対岸で見ていた沼田勢も、引き返して城の防備に全力を尽したのであるが、同十四日城主景義は、叔父金子美濃守の奸計にかかつて討死して沼田氏の一族は滅びたのである。宮塚の郷士深津長門方へ逃れた城主光清は、切腹しようと思つたが残つた二三の家の子に諌められ、思ひ止り剃髪して仏門に入つた。川田村下川田滝の西方に阿弥陀山川田寺と云う古刹があつた此処に残教上人と云う和尚が住んでおり名僧の聞え高く帰依するもの多く光清は此弟子となり、討死した家臣の冥福を祈つたのである。此残数上人と云うは石田三成の兄重成の長子で右近秋成と称し弟残哲と共に仔細あつて此地に来り、此寺に居住したものであつた。慶長五年三成関ケ原の一戦に敗れ、関東に逃れ、沼田の庄三峯山の麓に隠栖し兄重成は佐波山城に大敵に包囲され、土民に紛装して虎口を逃れたるも三成に似て居る所から田中吉政の家臣に捕えられ十月一日、京都六条河原に於て斬首の刑に処せられた。これを探知した兄弟は、至心に父の冥福を祈り此地に入寂したと云う。元和八年三月五日光清は名を光円と改め、天正十年十一月一人娘円珠を失い、只管仏陀に仕える身となつた。翌十一年三月上旬川田寺は炎焼したのでもとの城の後方即ち円珠の草庵のあつた跡へ、小林処右衛門直重を大檀那として一寺を建立し、円珠山大乗院遷流寺と名を附け、初代開基となり慶長十六年八月九日七十六才で入寂した。法名は覚誉光演大徳と謚号された。

 

 川田城趾及上川田城址についてもわかる範囲で記しておくことにする。

   川田城址

 真田昌幸沼田城主となり、炎焼した川田城は天正十五年再築され、山名信濃守を城主としたが、信濃守の長子山名主永子持山五郎沢で戦死したので、信濃守隠居し城は禰津助右衛門の所有となり、其家の子小林文右衛門を城代となし、山名の家の子、深津和泉塩野下野を差し添えられた。川田城址は下川田五反田にあつて遷流寺の直ぐ前で凹字形をなしており、現在は農耕地となり僅かに堀の形跡があるのみである。

   上川田城址

 嘉暦二年頃、沼田氏三世景盛の長男、沼田上野介平長忠(四代景継のこと)の弟発知兵部平為時なるもの、発知氏から別れ当地に来り小城を築き、其子孫数代城主となり居住したと云う、為時は後年鏡池山東光寺の開基となり、北朝の応安三年癸酉八月十八日入寂した。七十一才。東光院殿大室得用大居士と謚号された。

 城址は現在農耕地と化して、幾分堀の形跡を残しており、附近には馬柵口と云う所に天然の岩窟があり、馬を入れ馬柵をはめたる跡が其岩に残つている。兄上野介長忠は北朝の貞治二年金鳳山竜谷寺の中興の開基となつた。其弟は東光寺を開山したので、東光寺は竜谷寺の末寺となつて居る。

 川田氏滅亡の状況を記録したものに「加沢記」がある。真田氏の家臣加沢平次左衛門が、自ら見聞した事柄を綿密に記述したもので、貴重な資料である。その住居跡は川田城趾の西端にあり、墓は五反田薬師堂の裏手にある。

 いま「加沢記」から川田城関係の記事を見ると、「北条陸奥守倉内城に軍ありと聞き、天正十三年九月二十九日、二万余騎を率いて長尾左衛門先陣にて子持峠を越えて押し寄せ、禰津助左衛門尉山名主水は居城の女童は、倉内城え籠らせ川田城には旗少々立て置き大竹の要害に籠る。敵の大軍は山谷を動かして川田城を押取り巻き、鯨波を作りたるも城内に一人も居らざれば長尾も呆れて引き返した。突然大竹の伏勢水火になれと切つて出たので、長尾も案に相違し打たるゝものおびただしく、深山大木茂り幾万騎籠り居るやも知れず大将陸奥守が本陣、薄根の原も知れざる様に方角失い、漫りに馬に鞭打つて引き退いた。山名主水は此度我会稽の恥を雪がんと五郎沢の奥まで追かけ、小野勘五郎と渡り合つている処を大樹の蔭から鉄砲で胴を打ち抜かれ、五郎沢の露と消えた」とあり、また之れを見た家の子深津和泉、塩野下野、死骸を肩にかけ、高徳院の旧跡に墓を築き、厚く葬つた。(高徳院とは川田中学校の北方である。)又家の子深津和泉は天台宗利生院の養子となり、城主光清と山名主水の冥福を祈り今日に至る。尚大竹の要害には塩野下野同三郎左右衛門、田中甚之丞、小保方大学同雅楽之助を差し置いたと云われているが今猶、塹濠等わづかに形跡を止めており後年猪土堤と云われる。

 上毛史跡に掲載された次の文も、この時代を物語るものの一つである。

 口碑の伝ふる所に依れば、正平の頃屋形原上の原の地に高瀬戸勘解由と云う者がおり川田城主の四郎左右衛門景信に、縁組みを申し込んだが、屋形原は岡場だからと云つて拒絶されたので、然らばと下川田横子から水を引かうと堰を掘つたが完成出来なかつた。其跡今に残つている。加沢記に曰く、利根郡石倉村に石倉三河と云う者があり、上杉管領の幕下にて、群馬郡石倉城主であつたが、聊かの子細あつて、在所を没収され利根郡秋山兵部に頼り今泉の郷にて蟄居して居たが一とせ憲政公浪人となり、其時沼田弥七郎殿(沼田城主)を頼りて、前橋より沼田へ来りし其頃、高平雲谷寺に居り沼田殿さして御取り持ちなく川田の地頭、山名信濃守義秀を以つて在所ヘー時引き取り篠尾の郷高瀬戸の要害に、移し参らせて暫く馳走した。其時舘様と申したるに依り、高瀬戸の麓を舘原と名附けたのであつたと伝えられる。憲政公此所にも座し難く、彼の石倉御迎えに参り我が舘に引き取り奉る様にと御いたわり申上げた。

尚永禄十二年正月川場合戦に際し万鬼斎父子攻撃の後づめとして、前橋、長尾、真壁等の城兵との要害に陣したることも見え今尚石垣塹濠の跡が僅かに残つている。

引用元

『川田村誌』

この資料について

 引用文のなかに川田城が真田氏によって落とされる様子が詳細に書かれています(赤字部分)が、根拠となる史料が不明です。

 読み物としてはとても面白いのですが…

 知っている方いたら情報提供お願いします。

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