遷流寺の掛け軸

掛け軸【1】

書かれている文字

 二条院御製被成下置處

 

御諱守仁後白河長子母贈皇太后

藤原懿子贈太政大臣經實女也

保元三年十二月朔日御即位元年

在巳名治天下七年永萬元年七月

二十八日崩御志給布春秋二十三才

 

 上野の沼田の里に圓なる

  珠の阿りかを誰か知るらん

 

 加美津けの圓珠の里ハ

  川田そと多連加伝も

   聞えいでにき

 

  石袋 圓珠前

 水まさる利根の川邉のきの祢沢

  石の袋にせき入りにける

 

  立田山

 立田山紅葉を別て入る月は

  錦に津ゝむ鏡なりけり

 

  帰国の時

 磯の邊にすぐにぞたぐる月かけを

  ま登加になして帰る国浪

 

  老後尼となりて

 人は多く身の程ゝに思いし連

  露も重きは落ちてそたくる

 

  於地蔵渕命終の時

 有漏無漏の界の渕に跡た連て

  面かけう津すにしき葉の露

読み下し文

 二条院御製なしくだしおかれるところ

 

 御諱(いみな)は守仁(もりひと)、後白河の長子、母は贈皇太后藤原懿子(よしこ)、贈太政大臣經實(つねざね)の女なり。

 保元三年十二月朔日御即位。元年であるという。

 天下を七年治め、永萬元年七月二十八日に崩御し給ふ。春秋(年齢)二十三才。

 

 上野(かみつけ)の 沼田の里に 圓(まどか)なる

  珠(たま)のありかを 誰か知るらん

 

 かみつけの 圓珠の里は

  川田ぞと たれかのべるも

   聞えいでにき

 

  石袋 圓珠前

 水まさる 利根の川辺の きのね沢

  石の袋に せき入りにける

 

  立田山

 立田山 紅葉を別けて 入る月は

  錦につつむ 鏡なりけり

 

  帰国の時

 磯の邊に すぐにぞたぐる 月かげを

  まどかになして 帰る国浪

 

  老後尼となりて

 人は多く 身のほどほどに 思いしれ

  露も重きは 落ちてぞたぐる

 

  於地蔵渕命終の時

 有漏無漏(うろむろ)の 界の渕に 跡たれて

  おもかげうつす にしき葉の露

掛け軸【2】

書かれている文字

上毛野邦沼田之郷後川田郷登云其頃者當所、中川田登云今者下川田村登号寸沼田山龍泉院川田寺月錦圓珠御前大法尼者當所川田四良之女也保元之頃、

天皇譽里養蚕之業仁壽久連之者乎選美内裏仁参可之 詔里有里計留珠女其器仁中里又糸乎縷機乎織之玅術有故仁上洛志参内之天内侍仁進美

養蚕之役局登成珠局登號寸又幼稚従倭謌遠此、勢之乎毛天 天皇乃 御心仁招日計留此頃 天皇難題乎好ミ玉井天國國ニ求目玉婦

其時新田義重石袋之題乎奉里 謙議未駄一斌、筏留時側仁在人之曰義重者 御所乎恨美奉里天此之題乎棒久是謀叛之兆之登

既仁大事ニ及牟止寸留時 殿下之御計日ニ天珠局ハ上毛野人也先難題乎與邉天試美牟止珠局仁彼題乎賜波留時速計久石袋之和哥乎

詠計礼波 御感有天義重仁珠之局乎賜半流可乃 詔里有計留其時珠局 君之御心乎龍田之紅葉仁與曽邉鏡之謌乎詠計利

時ニ 御感斜奈良寸之天 御製之御返乎賜半流前之 御製是也或人側仁侍利天 奏之天曰珠之父先年者沼田一圓仁領

勢之乎今信重之徳實者仁天川田已也領勢留乎申寸此時 圓珠登者珠局之名仁在可之登復 御製乎賜半留後之

御製是也圓珠之志乎 御感之餘里仁 圓珠前登為玉日 后之御位仁即天義重仁賜布義重先祖再建乃

御座之御所真庭政所之再建乎願日圓珠前乎此処仁置天四良乎越後守仁任之 両所之守護職仁願計留即 勅許乎

蒙利天帰國之時淡海之湖仁天磯之月之倭謌乎詠計留保元五年(永歴元也)五月之頃叡岳慈源房乃元邉圓珠前従両所開門ニ付

関白之玉邉登申寸叡空名代止之天源空来臨寸 両御殿倶仁七日宛之説法也其法儀二巻有利其礼従圓珠前御子達多久有利幾

其後義重命終巳後上洛之天勢観房源智仁随日出家得度寸其礼従諸國乎廻流事十一年當所邉来里數年乃内ニ薬師堂七宇追々造立之

十王堂一宇乎立後ニ阿弥陀堂乎立天此之処ニ住之沼田山龍泉院川田寺登号寸川田家滅亡世之跡乎立天後壽年乎邉天圓珠御前今年二百七才

仁天當所地蔵渕仁乎邉天水定寸八月十六日辰之中刻也渕鳴動寸留事凡半日地響音雷之如之遺骸伊久間邉上利天骸之上仁長七寸計之白蛇有里見留人

恐怖之天身心乎佐久其夜夢之告有利廾餘行能合邉里教之如久十七日伊久間之渕之上ニ天火葬之十八日當所川田寺仁葬利畢奴

 洛陽於油小路

   九才児童藤原次麻呂書画倶誌

読み下し文

 上毛野邦沼田之郷、後川田郷という。その頃は當所は中川田という。今は下川田村と号す。沼田山龍泉院川田寺月錦圓珠御前法尼は當所川田四郎の女也。

 保元の頃、天皇より養蚕の業にじゅくれんの者を選び、内裏に参ずべきの詔りありける。珠女その器になかり、又糸を縷(ろ)、機を織の玅術ある故に上洛し、参内して内侍に進み、養蚕の役局となり珠局と号す。又幼稚より和歌をよくし、之をもって天皇の御心にかなひける。

 この頃天皇難題を好みたまいて、国々に求めたまふ。その時新田義重石袋の題を奉り、謙譲未だ一斌□、さる時側に在人の曰く、義重は御所を恨み奉りて、此の題を棒(ぶ)く。これを謀叛の兆しと既に大事に及び、牟(む)しする時、殿下のお計らいにて、珠局は上毛野人也。先ず難題をあたへて試みむし。

 珠局に彼題を賜はる時、速(はや)けく石袋の和歌を詠ければ、御感ありて義重に珠之局を賜はるかの詔りありける。その時珠局、君の御心を龍田の紅葉によそえ鏡の歌を詠けり。時に御感斜(ばかり)ならずして、御製の御返を賜はる前の、御製是也。

 或人側に侍りて、奏して曰く珠の父、先年は沼田一円に領す。これを今、信重の徳実者にて川田のみ也。領せるを申す。この時圓珠とは珠局の名にあるべしとまた御製を賜はる。後の御製これ也。

 圓珠の志を御感のあまりに、圓珠前となしたまひ、后の御位に即して義重に賜ふ。義重先祖再建の御座の御所真庭政所の再建を願ひ、圓珠前をこの処に置て、四郎を越後守に任じ、両所の守護職に願ける。即勅許を蒙りて、帰國の時、淡海の湖にて磯の月の和歌を詠ける。

 保元五年五月の頃、叡岳慈源房のもとへ圓珠前より両所開門に付関白のたまへと申す。叡空名代として源空来臨す。両御殿ともに七日ずつの説法也。その法儀二巻あり。それより圓珠前御子達多くありき。

 その後義重命終わる。以後上洛して勢観房源智に随い出家得度す。

 それより諸国を廻流のこと十一年當所へ来り数年の内に薬師堂七宇追々造立し十王堂一宇を立て後に阿弥陀堂を立てこの処に住す。これ沼田山龍泉院川田寺と号す。

 川田家滅亡せし跡を立て、後壽年をへて圓珠御前、今年二百七才にて當所地蔵渕にをへて、すいていす。八月十六日辰の中刻也。渕鳴動することおよそ半日地響音雷の如し。遺骸伊久間あたり上りて、骸の上に長さ七寸ばかりの白蛇あり。見留人恐怖して心身をさく。その夜夢の告ありとも、あまり行よく合へり。教の如く、十七日伊久間の渕の上にて火葬し、十八日當所川田寺に葬りおわんぬ。

 洛陽於油小路

 九才児童藤原次麻呂書画倶誌

内容

・保元(1156年から1158年まで)の頃、天皇から、養蚕の技術に優れたものを内裏に来させるよう命令があり、珠女(圓珠のこと)が参内して、内侍となり、養蚕の役職に任命されて「珠局」と呼ばれた。

 

・この頃、天皇は和歌の難しいお題を出すのが好きだったが、新田義重に与えた「石袋」のお題の回答がなかったところ、同郷の珠局に代わりにこのお題を与えるとすぐに、

 

 水まさる 利根の川辺の きのね沢

  石の袋に せき入りにける

 

と詠んだ。

 

・天皇は感心して、義重に珠局を与えるよう命令した。その時珠局は、天皇の心を龍田の紅葉に例えて、鏡の歌を、

 

 立田山 紅葉を別けて 入る月は

  錦につつむ 鏡なりけり

 

と詠んだ。

 

・その時の天皇の感動は格別で、

 

 上野の 沼田の里に 圓なる

  珠のありかを 誰か知るらん

 

の御製を詠んだ。また、「圓珠」とは珠局の名にあるべきであると、

 

 かみつけの 圓珠の里は 川田ぞと

  たれかのべるも 聞えいでにき

 

の御製をくださった。

 

・天皇は圓珠を「圓珠前」として后の位に即位させてから義重に与えた。圓珠前は帰国の時、淡海の湖で、

 

 磯の邊に すぐにぞたぐる 月かげを

  まどかになして 帰る国浪

 

と、磯の月の和歌を詠んだ。

 

・保元5年5月の頃、圓珠前は源空(法然)から説法を受け、義重が亡くなった後上洛して勢観房源智に随い出家得度した。

 

・圓珠前は川田に戻ってきて、阿弥陀堂を立て住んだが、ここを沼田山龍泉院川田寺と呼んだ。その頃、

 

 人は多く 身のほどほどに 思いしれ

  露も重きは 落ちてぞたぐる

 

の和歌を詠んだ。

 

・川田家が滅亡した後、数年が経って、圓珠前は207歳になって、川田の地蔵渕で水定(自ら入水死することによって永遠の瞑想に入ること)した。その時、

 

 有漏無漏の 界の渕に 跡たれて

  おもかげうつす にしき葉の露

 

の和歌を詠んだ。それは8月16日午前8時頃のことであり、渕が鳴動することおよそ半日、地響は音雷のようであり、遺骸は伊久間あたりまで流れて、遺骸の上に長さ約七寸の白蛇がいた。17日に伊久間の渕の上で火葬され、18日に川田寺に葬られた。