加沢記 巻之二② 吾妻郡守護並岩櫃城代之事

加沢記 吾妻郡守護並岩櫃城代之事
加沢記 吾妻郡守護並岩櫃城代之事

主な登場人物

武田信玄

 今回も筆まめ。

 目が悪くなったのでハンコを多用。

 細けーコトは甘利(たまに室賀)に聞いてくれ。

池田重安

 佐渡守。

 今回は城虎丸を守るため真田に降伏するが…。

内容

 さて、前巻の終わりで遂に齋藤憲広入道を追い出し、岩櫃を手に入れた真田率いる武田の軍勢ですが、この章では齋藤一門のその後の扱いについて書かれています。

 そして、齋藤家の末子、城虎丸の運命や如何に…!

 

 齋藤越前守藤原憲広入道一岩齋と、その嫡子である越前太郎憲宗、二男である四郎太夫憲春たちを追討した件について、幸隆父子、三枝松土佐守、室賀山城入道、祢津宮内太夫、矢沢薩摩守たちは“潜竜院”という山伏を通して、甲府へ報告を行いました。

 報告を聞いた信玄は…

 

信玄「よォ~ッしッ!!…オメーらよくやったな!」

 

…とメッチャ喜んで、吾妻の守護には一徳齋入道(幸隆)を、岩櫃の城代には三枝松土佐守、鎌原宮内少輔、湯本善太夫たちを任命しました。

 

 さて、齋藤の一門であった齋藤弥三郎、植栗主計、浦野中務太輔、富沢但馬、神保、唐沢杢之助、佐藤、有川、塩谷、川合、一場、蜂須賀、伊与久、割田、加茂、亘、鹿野、荒牧、割田、ニノ宮、桑原たちは、真田の下で本領を安堵され、岩下の郷に置かれました。

 なかでも唐沢杢之助は、早くから諸人と共に真田昌幸へ忠信していたので、本領17貫文のほか、所々の知行をもらいました。

 

 そして、鎌原と湯本からは、弥三郎が齋藤を裏切ったことについて、隠密に、真田信綱と室賀入道を通して報告されました…。

 このことについては信玄から感状が送られました。

―――――

齋藤越前入道逆心之企之処、各忠節岩櫃乗執条寔無比類候、近日可納馬候間弥三郎還忠之事可申付候可心易候、委曲従室賀所可申候仍如件

  永禄六年壬亥十二月十二日 信玄 在判

  今度之 忠節衆

―――――

信玄の手紙内容…

「オメーら~!…よく齋藤越前入道の悪だくみを阻止して岩櫃を手に入れてくれたな!…マジでよくやってくれたぜ~!…近いうちにそっち行くからな!……弥三郎の還忠の件はその時に話すべーや……まあ、そんなに心配しなくてもワリーようにはしねーって(笑)。……細けーコトは室賀に言っとく。じゃあ、ヨロシクな!」

―――――

 年明けの永禄7(1564)年正月、鎌原宮内少輔から…

 

鎌原「…信玄さま~……齋藤方からこちらについたヤツらの妻子を…いまオレん家で人質として預かってんですけど~……この乱世のコトですし……いつまでもこの城に置いとくのも心配なんですが💧…」(原文:齋藤が門族忠信の族妻子を人質に出して本城に被入置けるが、諸国乱世の中成ば此城に被差置候儀無覚束)

 

という報告が、鎌原筑前守を通して甲府へ提出されました。

 この報告を受けた信玄からは…

 

信玄「…まーな…そりゃあ確かに…オメーの言うとおりだな…」(原文:神妙也)

 

…ということで、また手紙が届きます。

―――――

岩下之人質迷執候、三枝松土佐守有談合被勤番之由祝着に候、如申越侯究竟之人質に候間齋藤弥三郎に加下知、急度此方え可召寄候、然者従最前其方忠信無比類候、猶以甘利左衛門申可候、恐々謹言

 追而眼病気故用印判候

  永禄七甲子正月廿二日 信玄 朱印在

  鎌原宮内少輔殿

―――――

手紙の内容…

「おう鎌原…岩下の人質の件だけど…オメーだいぶ悩んでるみてぇだな……あ、三枝松土佐守とも相談してくれたみてーじゃん…アリガトな。

…そんでさ~、オメーの言うとおり、アイツら大事な人質だからさぁ……齋藤弥三郎に言ってコッチに連れてこさせべーじゃね?

…それにしても最前線でがんばってくれてるオメーらにはホントに感謝してるかんな。細けー段取りは、また甘利左衛門に伝えとくからヨロシクな。

 追伸…最近眼が悪くてなー。花押を書くんがしんどいからハンコでカンベンな。」

―――――

 こんな感じで信玄と鎌原は連絡を取りあっていました。

 鎌原宮内は年始のあいさつに長男の筑州(筑前守)を甲府へ参府させて熊皮を5枚献上し、湯本善太夫も白根の硫黄を5箱献上しました。

 この時、信玄から所領安堵の手紙が渡されました。

 鎌原筑前守へは…

―――――

於三原渡候先約之地、齋藤押領之間不及了簡至信州海野出替地儀此度齋藤逆心所帯没収條、任先般旨従赤川南弐百貫文之所無相違可被致知行侯恐々謹言

追而〇川赤川之落合より南之儀去壬戊年以検使如相定不可有相違候山之事も同前

  永禄七甲子二月十七日 信玄 在判

  鎌原筑前守殿

―――――

内容…

「よう!…鎌原のせがれの筑前だっけ?…オメーに約束してた三原の土地な~…齋藤が占領してたもんで信州の海野(地名)を代替にしてたワケだけどさ、今回の件で齋藤からブン取ったから、赤川の南の200貫文は間違いなくオメーにやるよ。あと〇川と赤川の落合から南の件だけど、去年に検使を送って決めた内容のとおりだから。山もな。」

―――――

 湯本善太夫へは…

―――――

於本領草津谷取来候通羽尾領内立石長野原之分先約之地合百七拾貫文之処無相違知行可被領候

追而草津之内儀も前々之通候已上

  同 信玄 在判

  湯本善太夫殿

―――――

内容…

「湯本~…オメーもアリガトな。オメーの本領だった草津谷はもちろん、羽尾領内の立石と長野原…約束した170貫文は間違いなくオメーにやるよ。あと草津ン中のことも前々のとおりでオッケーだからな。」

―――――

 

 そして、海野長門守兄弟の妻女、齋藤弥三郎の妻女、富沢但馬の妻子、植栗相模の娘、唐沢杢之助の二男である「お猿」たちの人質は甲府へ送られ、下曽根岳雲軒に預けられました。

 

 ところで、齋藤方から武田についた者たちに与えられた領地は…

 齋藤弥三郎は吾妻郡のうち、齋藤入道の蔵入から5分の1を、本領であった川戸上村に加えて与えられました。

 他の者たちも本領は安堵されました。

 海野兄弟は真田へ預けられ、信州の佐久と小県の両郡のうちから、あちらこちらの土地が少々あてがわれました。

 

 さて、齋藤家の末子である城虎丸は、家臣の池田佐渡守と池田甚次郎を従え、蟻川式部、山田与惣兵衛、割田下総、鹿野大介、植栗主殿介たちの無二の臣とともに、中山と尻高の加勢を受け、越後へ忠信して武山城に立籠っていました。

 一徳入道(真田幸隆)は…

 

幸隆「ちッ…あのクソガキ(城虎丸)がッ……手こずらせやがって!……だが、アイツをなんとかしねーと…吾妻を完全に手に入れたとは言えねーぜッ…!!」(原文:不易)

 

…と、数度の合戦が繰り返されました…。

 

 その頃甲府では…

 

信玄「あンだとォ~!…武山の件を聞いた謙信が川田伯耆守と栗林肥前守を使って出張ってくるだぁ!?」

 

…と、信玄が信州の水内郡、川中嶋の城主である清野刑部左衛門尉と、甲府の曽根七郎兵衛尉を差向けました。

 その時の清野への手紙が…

―――――

越後衆至沼田出張之由二候、依之従当国は曽根七郎兵衛立遣候、早々長野原辺に着陣、一徳依差図岩櫃え可被相移候、抑其方事近日奥信濃より帰陣、無幾程如此下知之條寔雖憚入候急速出陣、偏に可為忠信候恐々謹言

尚々敵出張之由、有無共真田迄可被聞届候已上

  甲子 三月十三日 信玄 在判

  清野刑部左衛門尉殿

―――――

内容…

「おう清野!…なんか越後のヤツらが沼田に出張って来るっつーじゃねぇ?…ウチからは曽根七郎兵衛を送るからさ、オメーも早々に長野原に着陣してくれや。そしたら一徳(幸隆)の指示に従って、岩櫃まで行ってやってくんねーかな?

…オメーも最近やっと奥信濃から帰ってきたばっかなのに、また急な出陣の頼みでワリーけどさ……まーオレの顔を立ててくれや、頼んだで…。あ、それと敵の出張の件は、顛末を真田に伝えておいてくれいな。」

―――――

 そんなワケで清野と曽根は1,000余騎にて岩櫃に着陣しました。

 対する武山の城には栗林肥前守と田村新右衛門尉が加勢して、その兵はまるで雲霞のように見えました…。

 永禄7(1564)年3月下旬、成田原、三の原で合戦となりました…!

 

 さて、晴信(信玄)が甲府を出発し、上州南牧の“よし峠”を越え、箕輪に着陣したという情報が入ると、齋藤方は武山の城へ引き籠って軍を挙げての籠城モードに入りました…。

 その頃、大戸と浦野も箕輪に参上して信玄にあいさつを済ませました。

 鎌原も軽井沢駅へ使者を送ると、また信玄が手紙をくれました…。(この頃から軽井沢は「駅」なんですね。)

―――――

其方倅〇浦中忠節感入候、仇敵地之麦作悉苅執、和田天引高山え籠置、倉賀野諏訪安中之苗代薙払、其上武州本庄久々〇と一放火内々暫雖可立馬候、従最前此度は如此之行之外不可有別條之旨存候、殊民農務之時候條来月下旬早々可為出張今日平原迄帰陣候

就夫其地之番勢浦野祢津真田之衆申付候、先為〇番常田新六郎、小草野孫左衛門、浦野左馬允以下相移候、委曲甘利可申候恐々謹言

  永禄七年甲子五月十七日 信玄 在判

  鎌原宮内少輔殿

―――――

内容…

「鎌原~…わざわざオメーのせがれをコッチに寄越してくれてアリガトな。

 オレのほうの近況だけどさー…敵の畑の麦をみーんな刈り取ってやってさー、和田と天引と高山にブチ込んでやったぜーw。

 それから倉賀野と諏訪と安中の苗代を薙ぎ払ってやったからよー…敵のヤツらさぞかし困ってるだろーな(笑)

 その後は武州の本庄久々宇に火🔥ィ付けてやったぜ!!

…まぁホントはもっと暴れて―トコだけどさー…他にも色々やる事があってな~…農業が忙しい時期だし、来月下旬にはまた出張(デバ)んねーといけねーし…仕方ねーから今日のところは平原まで帰ってきたぜ。

 そっち(吾妻)の件はさー、浦野と祢津と真田のヤツらに任せるからよー。常田新六郎と小草野孫左衛門と浦野左馬允もそっちにやるわ。

 また細けーコトは甘利に言っとくからヨロシクな!」

―――――

 さて、武山の援軍が一井齋(長尾)と一緒になって岩櫃を攻めようと企んでいることを聞きつけた幸隆は、箕輪へ白倉武兵衛を使いに遣り、5月下旬に安中越前入道と三河衆300余騎の援軍を得ました。

 

…で、今度は謙信がこのことを聞きつけて、柴田右衛門尉と藤田能登守の2,000余騎を差し向けます…!

 彼らは木の根峠を越えて三国峠の“こわ清水”の辺に着陣しました。

 

…と、さらにこれを聞きつけた後番の真田信綱は手勢の500余騎を率い、先陣として川原左京と丸山土佐守に200余騎を与え、朽葉四方に六文銭の紋書を旗印に進軍し、岩櫃の城には入らずに沢渡伊賀野山に陣取りました…!

 祢津元直は500余騎を従えて、先陣は家来の田沢兵庫介、加沢出羽、別府若狭……後陣は嫡子である利直の200余騎に水林与七郎、藤岡左中、白石兵庫を添えて都合700余騎で岩櫃に着陣しました。

…さらに幸隆の手勢と地元の衆を合わせた3,000余騎が雲霞のごとく集まり、寄せ来る敵を待ち受けていました…。

 

 さて、この危機的状況のなか、武山で齋藤城虎丸を守る池田佐渡守の取った行動は……

 

 池田佐渡守父子は降参を表明して、

 

池田「…真田の方々……我々は…齋藤家を盛り立てようとして、今まであなた方と敵対してきたワケだが…こうなってしまったからには城虎丸さまだけは助けてくださらないだろうか?…その望みが叶うなら…武田に忠信もしよう…」(原文:主君齋藤をもり立申が為只今迄敵と成候也、城虎丸御助けあらんに於ては無二の忠信仕)

 

…と、植栗を通して幸隆父子へ願いました。

 真田父子は…

 

真田父子「…あ?…そう…。まぁ…なら、いんじゃね?」(原文:子細なし)

 

と言って人質を受け取り和談しました。

 

 こうして信州から攻撃に参加した面々、清野と曽根の両将も帰陣し、その年は静謐に暮れていきました…。

 

 

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原文

齋藤越前守藤原憲広入道一岩齋嫡子同越前太郎憲宗、二男四郎太夫憲春追討之次第幸隆公御父子、三枝松土佐守、室賀山城入道、祢津宮内太夫、矢沢薩摩守会合有て幸隆公手書に被連ける潜竜院と申山伏を召て一々に記之甲府へ注進し給ければ、信玄公喜悦不浅して吾妻の守護には一徳齋入道、城代には三枝松土佐守、鎌原宮内少輔、湯本善太夫、扨齋藤が一門族齋藤弥三郎、植栗主計、浦野中務太輔、富沢但馬、神保、唐沢杢之助、佐藤、有川、塩谷、川合、一場、蜂須賀、伊与久、割田、加茂、亘、鹿野、荒牧、割田、ニノ宮、桑原等の者共は真田え御預け有之本領を安堵して各岩下の郷にぞ被差置ける、唐沢杢之助は最前抽諸人昌幸公え忠信有ければ本領十七貫文外所々にて知行賜りける、かくて鎌原、湯本方より弥三郎還忠の事両人隠密申定候品追而甲州へ真田信綱、室賀入道を以申されければ、一紙を以御感状を被下ける、

 齋藤越前入道逆心之企之処、各忠節岩櫃乗執条寔無比類候、近日可納馬候間弥三郎還忠之事可申付候、可心易候、委曲従室賀所可申候、仍如件、

  永禄六年壬亥十二月十二日  信玄 在判

  今度之  忠節衆

此感状鎌原宮内少輔に賜りけり、明れば永禄七年甲子正月の頃齋藤が門族忠信の族妻子を人質に出して本城に被入置けるが、諸国乱世の中成ば此城に被差置候儀無覚束とて鎌原筑前守を以甲府へ被注進ければ神妙也とて御書を被下ける、

 岩下之人質迷執候、三枝松土佐守有談合被勤番之由祝着に候、如申越侯究竟之人質に候間齋藤弥三郎に加下知、急度此方え可召寄候、然者従最前其方忠信無比類候、猶以甘利左衛門申可候、恐々謹言

 追而眼病気故用印判候

  永禄七甲子正月廿二日  信玄 朱印在

  鎌原宮内少輔殿

かくて鎌原宮内年始之為御礼長男筑州甲府え参府を遂熊皮五枚進上し御礼申上られける、湯本善太夫も白根硫黄五箱指上御礼す、此時安堵の御書をそヒ下ける、

 於三原渡候先約之地、齋藤押領之間不及了簡至信州海野出替地儀此度齋藤逆心所帯没収條、任先般旨従赤川南弐百貫文之所無相違可被致知行侯恐々謹言

 追而〇川赤川之落合より南之儀去壬戊年以検使如相定不可有相違候山之事も同前

  永禄七甲子二月十七日  信玄 在判

  鎌原筑前守殿

 於本領草津谷取来候通、羽尾領内立石、長野原等之分先約之地合百七拾貫文之処無相違知行可被領候、

 追而草津之内之儀も前々之通候、已上

  同  信玄 在判

  湯本善太夫殿

海野長門守兄弟之妻女、齋藤弥三郎妻女、富沢但馬妻子、植栗相模娘、唐沢杢之助二男お猿等の人質甲府へ被召寄下曽根岳雲軒に被預ける、齋藤弥三郎には吾妻郡之内齋藤入道蔵入之内五分一本領川戸上村に差添被下ける、其外は本領安堵して居たりけり、海野兄弟は真田え御預ケ有之信州佐久小県両郡之内在々上り地少々宛行けり、猶も齋藤城虎丸は家臣池田佐渡守、同甚次郎付従い、蟻川式部、山田与惣兵衛、割田下総、鹿野大介、植栗主殿介無二の臣にして中山尻高与力して越後へ忠信して立籠りけり、一徳入道不易思召て数度之合戦止事なし、此由謙信公聞召て川田伯耆守、栗林肥前守を以出張と聞へければ甲府へ注進有ければ信州水内郡川中嶋の城主清野刑部左衛門尉甲府より曽根七郎兵衛尉をヒ差向ける、清野えヒ下ける御書有、其文に曰、

 越後衆至沼田出張之由二候、依之従当国は曽根七郎兵衛立遣候、早々長野原辺に着陣、一徳依差図岩櫃え可被相移候、抑其方事近日奥信濃より帰陣、無幾程如此下知之條寔雖憚入候急速出陣、偏に可為忠信候恐々謹言

 尚々敵出張之由、有無共真田迄可被聞届候已上

  甲子 三月十三日 信玄 在判

  清野刑部左衛門尉殿

去程に清野、曽根千余騎にて岩櫃に着陣す、武山の城え栗林肥前守、田村新右衛門尉加勢して其勢如雲霞見えたりければ、永禄七年三月下旬成田原、三の原に於て合戦有けるが、晴信公甲府を御立有て上州南牧よし峠を越て箕輪に着陣と聞えければ、武山の城へ引籠て軍を上て籠城す、其頃大戸、浦野も箕輪にて御礼相済ける、鎌原も軽井沢駅へ以使者申上ければ、則御書を被下ける、

 其方倅〇浦中忠節感入候、仇敵地之麦作悉苅執、和田天引高山え籠置、倉賀野諏訪安中之苗代薙払、其上武州本庄久々〇と一放火内々暫雖可立馬候、従最前此度は如此之行之外不可有別條之旨存候、殊民農務之時候條来月下旬早々可為出張今日平原迄帰陣候、就夫其地之番勢浦野祢津真田之衆申付候、先為〇番常田新六郎、小草野孫左衛門、浦野左馬允以下相移候、委曲甘利可申候恐々謹言

  永禄七年甲子五月十七日 信玄 在判

  鎌原宮内少輔殿

かくて武山の加勢と一井齋と一手に成て岩櫃を責とて評議区々之由幸隆公聞給て最前箕輪へ白倉武兵衛を以被申けるが加勢をば被附たり、加勢に安中越前入道、三河衆三百余騎五月下旬着陣す、猶此事謙信公聞玉て柴田右衛門尉、藤田能登守弐千余騎を差添木の根峠越三国峠こわ清水の辺に着陣すと聞へければ、後番の真田信綱手勢五百余騎率先陣川原左京、丸山土佐守に弐百余騎相添、朽葉四方の大旗に六文銭の紋書を真先に進ませ岩櫃の城に不入して沢渡伊賀野山に陣取給ける、祢津元直は五百余騎を随て先陣家の子田沢兵庫介、加沢出羽、別府若狭、後陣は嫡子利直弐百余騎にて水林与七郎、藤岡左中、白石兵庫を指添都合七百余騎岩櫃に着陣す、〇番勢幸隆公の勢地衆を合三千余騎雲霞のごとく集て寄来る敵を待玉ひける、かゝりける処に池田佐渡守父子降人に成て出主君齋藤をもり立申が為只今迄敵と成候也、城虎丸御助けあらんに於ては無二の忠信仕と植栗を以幸隆御父子え申されければ、子細なしとて人質を請取和談し給ひける、かくて信州寄手の人々清野、曽根の両将も帰陣せられければ其年は静謐にて暮にけり。