加沢記 巻之二⑬ 沼田守護代之事

加沢記 沼田守護代之事
加沢記 沼田守護代之事

主な登場人物

上野中務大輔

 謙信から沼田の本城に配置された。

 オマエは一体誰なのか…上野家成なのか上野清信なのか加沢ミステリー。

川田伯耆守

 謙信から沼田のニノ丸に配置された。

 オマエは河田重親のことでいいのか…しかしその行動は加沢ミステリー。

藤田能登守

 謙信から沼田の三ノ丸に配置された。

 …のか?……藤田(用土)信吉オマエは誰の命令でそこにいるのか…加沢ミステリー。 

内容

 この章は今までも何度か出てきた沼田城代の上野、川田、藤田がメインのお話ですが、章で語られる年代が幅広く(信玄の生前から謙信の死後まで)なっているので、ストーリー的には「??」って感じになりますが、加沢記あるあるなんでガマンして読みましょう。

 

――永録12(1569)年春――

 

謙信「…あ~あ、柴田のヤツ、すっかり精神が参っちゃったみてぇだな~……代わりの沼田城代…どうしたもんかね~?……迂闊な人事するとま~た海千山千の沼田衆に潰されちまうからな~…

…そういえばさ~、公方義輝公の執事をしてたっつーヤツで“上野中務大輔”ってのがいま春日山にいるよな~…アイツに頼むか…」

 

 こうして、沼田の本城には上野、ニノ丸には川田伯耆守、三の丸には藤田能登守が置かれ、領内郡郷の事は金子美濃守、松本、小中の三人を奉行として治めることとなりました…。

 

…が…!

 

 柴田(川田の間違い?)と藤田は、上野と仲が悪く…

 

藤田「…クソ…あの上野ってヤロウ気に入らねーなー……南方(小田原)へチクって追い出してやろーかな…」(原文:南方へ忠信して上野殿を追出さん)

 

…と企てます…。

 この企みを悟った上野は…

 

上野「…へぇ!?……そーゆーコトしてくれちゃうワケ?……だったらオレは“甲府”へ(!?)忠信しちゃおッかな…」(原文:甲府へ忠信せん)

 

…と考えはじめ…

 

上野「…つーわけで金子に小中…誰か適任者いねえ?」(原文:誰を以可申)

 

…と金子と小中に相談します…。

 

泰清「…そうゆーコトなら…川田(この『川田』は地名?)の住人で小保方勘解由の弟に大炊之介っつーヤツがいるんですが…アレならそういった仕事もやるかと…」(原文:川田の住人小保方勘解由が弟大炊之介こそ左様の御使をも仕らん者)

 

上野「…そうかw」(原文:さらば)

 

 上野は小保方を呼び出し、甲州へと送り込みました…。

 

 信玄は小保方に対面し御杯を与えました…。

 

信玄「おう、小保方!…ご苦労さん!…上野には『来年までガマンして城を守れ』って言っといてくれや…来春にはそっちにデバるからよ…」(原文:上野殿へは来年迄城を持給へ来春出馬あらん)

 

…と返事を伝え、小保方に褒美として黄金作のさや巻の太刀を与えました…。

 

 これで前々々々章の「信玄公沼田発向之事」に繋がるんですかね?…つーか「ホンマか?」って感じですが…

 

 さて、上野は公方のところで仕事をしていたというだけあって、万事がおっとりしていたので、川田と藤田は…

 

川田・藤田「(…ヤロウ…上品ぶりやがって…)」

 

…と、ますます不快に感じていました…。

 これを聞いた謙信は…

 

謙信「あ~…このままじゃあ川田のヤツ寿命がストレスでマッハだな…仕方ねえ…呼び戻すべー…」

 

…と、川田を新田郡へ退去させました…。

 その頃、川田はすでに病気になっていたので、越後から一緒に来ていた家臣の中村新助は新田まで付き添って川田を8年間見届けた後、また沼田に帰ってきたとのことです…。彼は中村弥右衛門(誰だよ?)の祖父だとか…。

 

 その後、上野と藤田は和睦して引き続き沼田に居たということです…。

 

 天正6(1578)年3月13日、謙信が亡くなると、上野は供養の為、舒林禅寺で法事を執行し石塔を一基建てました…。

 ココに出てくる舒林禅寺はいま沼田市材木町にある舒林寺のことですね。上野が謙信の供養をした当時は現みなかみ町後閑にあったそうです。

 この石塔は後に鳥越山如意寺に安置されました…。

 

 上野は天正6年の春、奥州へ行ったので、沼田は藤田ひとりが城代をすることになりました…。

 

 この鳥越山如意寺は名胡桃三郎景冬の姉である如意姫が開基のお寺ですね。

 上野が建立した謙信の供養塔も現存しています。

 

 

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原文

謙信入道は永録十二年の春柴田が代りとして沼田に可被為置に評定有ける、爰に公方義輝公の執事給ける上野中務大輔と云し人近年謙信を頼春日山に被居けるを、沼田守護代に御頼ありける、本城に上野殿、ニノ丸に川田伯耆守、三の丸に藤田能登守領内郡郷の事は金子美濃守並松本、小中三人奉行を被定けるに柴田、藤田、上野と不和にして南方へ忠信して上野殿を追出さんと工みにける、如此由上野殿さとり給て甲府へ忠信せんと被思けるが誰を以可申と金子、小中に談合せられければ川田の住人小保方勘解由が弟大炊之介こそ左様の御使をも仕らん者と申ければ、さらばとて小保方を被召寄甲州忠信せられければ信玄公被聞召小保方に御対面有て御杯を給り、上野殿へは来年迄城を持給へ来春出馬あらんとの御返事也、扨小保方に褒美として黄金作のさや巻の太刀を被下けるとなり、上野殿は公方の御仕置し給る人也ければ万事大様也ければ川田、藤田と不快にして此由謙信被聞召川田は沼田を退散せられ新田郡へ退去したり、其頃川田氏大病成ければ越後より附来る家臣中村新助も新田迄附随川田殿を八年見届沼田へ被帰たり、中村弥右衛門祖父なり、其後上野、藤田和睦して沼田にぞ被居たりける、天正六年寅三月十三日謙信卒去ありければ、上野は御供養の御為とて舒林禅寺にて法事執行被致石塔一基建たり、彼石塔後に鳥越山如意寺に安置したりける、上野は天正六年の春奥州へ被参藤田壱人城代なり。