加沢記 巻之一⑥ 沼田了雲齋入道御繁昌之事

加沢記 沼田了雲齋入道御繁昌之事
加沢記 沼田了雲齋入道御繁昌之事

主な登場人物

沼田了雲齋泰輝

 章のタイトルになってるのに目立たない人。

 万鬼齋顕泰のお父さん。

 ときどき龍雲齋だったり上野介だったり長忠だったり舒林院だったり家重だったりする。

沼田万鬼齋顕泰

 勘解由左衛門尉。

 顕泰の「顕」は上杉顕定の「顕」。

沼田上野介

 顕泰の嫡子とされているが法城院の系図には載っていない。

 弥十郎?…足利義輝に仕える。

沼田三郎憲泰

 憲泰の「憲」は上杉憲政の「憲」。

 書いた絵を実体化させるスタンド使い。スタンドは自身の能力を逆に利用されて封じられた。

六郎

 赤見綱泰。

 万鬼齋顕泰の妹の娘と結婚する。いとこ婚。

沼田弥七郎朝憲

 倉内城主。

 北条(きたじょう)弥五郎の婿になった。

安中の御前

 安中越前守のヨメになった。だから安中の御前。

沼田平八郎景義

 末子。

 領地を3分の1もらって川場で暮らす。

内容

 この章も沼田家ですね。まだストーリーの本筋には戻らないです。

 

 永享11(1439)年に鎌倉の公方が威を失ってからというもの、都も田舎も穏やかでなくなり、なかでも関東は大いに乱れ、至る所で、片時も合戦が止むことはありませんでした。

 

 さて、沼田は上野介長忠(泰輝)の代になりました。彼の法名は舒林院殿と号し文武の達人でした。

 上野介は武略により沼田近辺の城主を幕下に従え、嫡子である顕泰の代に至ると、利根、勢多、吾妻郡のうち須川の郷を限り中山、尻高、平方、米野、祢利、黒川、深澤、五乱田の辺まで領地とし、その地方の城主を皆幕下に従えました。

 

 沼田顕泰は当国の管領である上杉民部太輔藤原顕定に従い、平井の城へ出仕しました。

 顕定から御諱の字を賜り「顕泰」と号したということです。

 

 御奥は長野信濃守の娘で、多くの子を持ちました。

 

 嫡子の上野介殿は、光源院義輝公の近臣となり、近江国にて領地をもらい在京しました。光源院義輝というのは足利義輝のことですね。

 

 長男の上野介が近江国に行ってしまったので、二男の三郎が嫡子となって平井へ出仕し、上杉憲政公から一字を賜り「憲泰」と名乗りました。

 沼田三郎憲泰は18歳の時、上杉の老臣で群馬郡白井城主の長尾左金吾平昌賢の三代の嫡孫である長尾左衛門景春伊玄入道の婿になりましたが、程なく逝去してしまいました…。

 この沼田三郎憲泰が7歳の頃、母親と老神に浴湯しに行った際に小屋の上の岩に墨絵で馬を描いたところ、その馬が実体化して近所の耕作地の作物を喰ったりしました。

 困った農民が徳の高い僧に頼んで繋馬に描き直してもらったら、暴れなくなったそうです。

 描いた馬が実体化して暴走してしまうあたり、自分の能力を制御できないスタンド使いみたいですね~。第6部の『ボヘミアン・ラプソディー』を局所的にしたみたいな感じですが…繋馬に描き直す発想はウェザーリポートがやったこととまあ似たようなものですね。あ、ちなみに「スタンド」だの「第6部」だのの話は日本が誇る国宝的文学作品『ジョジョの奇妙な冒険』の話です。『加沢記』は少年漫画的要素が多いですよね。

 

 ちなみに、この入湯の時に母公が詠んだ歌が、

 

  谷ふかみ たえぬ松風 波の音

   只さびしきは 老かみぞかし

 

ですね。

 円珠姫とも関わりのある歌ですが、彼女もこの時一緒にいたのでしょうか。それともまた別の日に老神に来た時のことかな?

 

 続いて三男の六郎についての話です。

 野州の佐野宗綱の一族に赤見という顕泰の妹婿がいましたが、彼には女の子が1人いたので、六郎を婿にして名跡に立てました。

 その際、赤見家からは六郎のために家臣の兵藤駿河守という侍がお迎えとして沼田へ来たそうです。

 

 四男の弥七郎は沼田倉内の城主で、前橋城の主、北條弥五郎の婿になりました。『加沢記』だとこの人は「御実名不知追而可考」(御実名知れずおって考えるべし)とされていますね。

 

 弥七郎には妹が一人おり、長野信濃守の仲立ちで、碓氷郡安中の城主である安中越前守と祝言をあげました。この人は「安中の御前」と呼ばれました。

 

 顕泰は入道して「万鬼齋」と号し、弥七郎へ倉内の城を譲りました。

 そして、末子の平八郎に領地の3分の1を譲り、父子一緒に下川場の郷に屋敷を構えて隠居しました…。

 

 弥七郎は童名を「米童」といい、3歳の時は吾妻郡須川郷の箱崎城にいました。

 

 その時池原という所に諏訪大明神を建立し、別当に茶坊主の慶博という者を山伏にして御陣にも連れて行きました。この子孫は今も「光学院」といって別当をしているということです。

 

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原文

永享十一年、鎌倉の公方威を失ひ給しより以来、都鄙不静、就中関東大に乱て在々所々に片時も合戦止時なし、上野介長忠の代也。法名は舒林院殿と号し文武の達仁也。武略を廻し沼田近邊の城主を幕下に仕付給ひて嫡子勘解由左衛門尉顕泰御代に至て利根、勢多、吾妻郡の内、須川の郷を限り中山、尻高、平方、米野、祢利、黒川、深澤、五乱田の邊迄領地し給ひ、其内の城主皆幕下に属し当国の管領上杉民部太輔藤原顕定に隨ひ平井の城へ出仕し給ふ。顕定公より御諱の字を賜り顕泰と号し、御奥は長野信濃守殿の御女也。御子数多おはしましけり。嫡子上野介殿は光源院義輝公の近臣に属し、近江国にて領地を下賜り在京し給けり。二男三郎殿嫡子に立給ひ平井へ出仕あり、上杉憲政公より一字を賜りて憲泰と申けり。十八歳の御時上杉の老臣群馬郡白井城主長尾左金吾平昌賢三代の嫡孫長尾左衛門景春伊玄入道の御聟に成らせ給けるが無程逝去し給ける。三郎殿七歳の御時御母公と老神へ浴湯し給し時、小屋の上巌に墨絵にて馬を被遊けるが其後近所の耕作を喰けるに依て、農民有徳の僧を以て繋馬に書ければ其後は放れざると也、御入湯の時御母公讃給へる歌あり。

 谷ふかみ たえぬ松風 波の音

  只さびしきは 老かみぞかし

三男六郎殿は野州佐野宗綱の御一族赤見殿と申は、顕泰の御妹聟にて御座す、御女子一人ましますにより御聟名跡に六郎殿を立給けり。其時赤見殿より六郎殿為御迎家臣兵藤駿河守と申す侍、沼田へ被差越けり。四男弥七郎殿(御実名不知追而可考)沼田倉内御城主にて前橋城主北條弥五郎殿の御聟に成せ給けり。弥七郎殿御妹子一人御座しけるが長野信濃守殿御中立にて碓氷郡安中の城主安中越前守殿へ御祝言也、之を安中の御前と申す也。顕泰は入道し給て萬鬼齋と號し、弥七郎殿へ倉内城を譲り給て御末子平八郎殿へ領地三ヶ一を分譲り、御父子一所に下川場の郷に御屋鋪を構給て隠居し給ひ鳬。弥七郎殿御童名を米童殿と申し鳬。三歳の御時吾妻郡須川郷箱崎城に居給ける。其時池原と云所に諏訪大明神を建立し給ひ、別当に御茶坊主慶博と申す者を山伏に被成けり。御陣の御供にも出たり、子孫光学院とて今に別当なり。