阿曽城跡

阿岨城、阿楚城とも書く。

 天正10(1582)年10月、猫城で敗退した沼田勢に対して、今度は北条氏邦が攻撃を仕掛けてきます。

 沼田城代の矢沢頼綱は、長井坂城に恩田越前守、鎌田城に加藤丹波守、そして阿曽城には金子美濃守を配置してこれに対抗しますが…

 

 10月23日、既に長井坂城と鎌田城は落とされた非常事態のさなか、この阿曽城で二十三夜の酒宴を催していた金子美濃守泰清のところに妹婿の大淵勘助が息を切らしてやってきて「大変だ!白井のほうからたくさんの松明が…氏邦の夜討ちだ!!」と報告します。

 

阿曽城の一同「えぇ~!?」

 

 城はすっかり猪俣の率いる軍に包囲されてしまいした…!

 

 阿曽城中では、驚いた兵たちが、鎧一つに2、3人が取り付いて「オレの!オレの!」と争ったり、太刀や長刀を取り合ううちに間違って味方を斬ってしまったり、繋いだままの馬に乗ったり、と…それはもうエライ騒ぎでした…。まるでコントです。

 

 泰清は「此体たらくにては軍は不叶」(訳:だめだこりゃ)と、混乱した阿曽城と部下を見捨て(自分のせいなのに)、三橋甚太郎というお供一人を連れ、沼須の海應山金剛院に逃げ込みました。それは月が出て明かりに照らされる一瞬前のことでした…悪運の強さハンパねぇ…。

 さて、泰清に見捨てられた阿曽城では大淵勘助と星野図書が踏み止まって猪俣の軍と戦いましたが、討ち死にしてしまいます…。

 

 北条氏邦は泰清を討ち漏らしたことを悔しがり、5,000人がかりで金剛院を取り巻き探しましたが、ついに見つけることはできませんでした…。

 ↑金子美濃守泰清が逃げ込んだ海應山金剛院跡(沼田市利南公民館の近く)

 あんな崖を逃げてきたのか~…