加沢記 巻之一② 幸隆公武略を以て村上義清を討給事

加沢記 幸隆公武略を以て村上義清を討給事
加沢記 幸隆公武略を以て村上義清を討給事

主な登場人物

真田幸隆

 前章で武田に属したのはいいけど村上義清をぶっ〇したくて仕方ない。

村上義清

 前章で海野幸義に勝ったのはいいけど真田幸隆をぶっ〇したくて仕方ない。

 今回も残酷な刑罰の使い手。

小草野若狭守

 春原兄弟の兄。隆吉。たぶん。

 『加沢記』だと弟ほど目立たない。

春原惣左衛門

 春原兄弟の弟。

 セリフが長い。

 ポートクリスの使い手。

内容

 長かった最初の章が終わって、新しい章に入ります。

 真田幸隆は常々…

 

幸隆「あ~…村上義清ぶっ〇してぇ~!…ぶっ〇してアニキ(海野幸義)の供養がしてぇ~!…武田に付いて本領に帰ったのはいいけど、あのヤロウ(村上義清)がノホホンと生きてると思うと……クソッ!…『無念』なんて言葉じゃ言い表せねぇぜ…!!」(原文:一度敵を討て幸義の供養に報ぜん…武田に属し本領には帰けれども村上義清を安穏に置事、無念と云も猶余有)

 

 真田幸隆は、小草野若狭守、春原惣左衛門の兄弟を呼び出し…

 

幸隆「おう!…若狭に惣左衛門…よく来たな~!…オマエらの祖先は武蔵国住人、宣化天皇の末孫で『丹治』姓をもらい、熊谷、青木、勅使河原、安保氏で『丹党』と名乗っていたが、その中の熊谷の一族が分家して久下、熊谷、春原の兄弟三家になって、色々あって関東からウチに来て代々仕えてるんだよな~」(原文:其方先祖は武蔵国住人宣化天皇の末孫丹治姓にて熊谷、青木、勅使河原、安保氏を丹党と號す、熊谷の門葉分つて久下、熊谷、春原とて兄弟三家に分る、世の申浮沈にして関東より当国に来り我等が先祖に属し代々の臣たり)

 

春原兄弟「…はぁ」

 

幸隆「オマエらも知ってのとおり、オレは村上義清をぶっ〇して左京太夫殿(海野幸義)の供養がしてェんだ…!」(原文:各存知の通、義清を討て左京太夫殿の御供養に奉報と)

 

春原兄弟「そうですね。」

 

幸隆「しかし、だ…何回も合戦しているが、義清はさすがに大名だけあって、容易にぶっ〇す事はできねーぜ…こんな状態で歳月が過ぎるのが残念で仕方ねえ…。そこでだ、オマエら兄弟の命を、左京太夫殿への恩義に報いる為、捧げてくんねーかな…?」(原文:度々及合戦と雖も大名なれば容易に可討様も無く年月を送ること無念也、兄弟の命を左京太夫殿への恩義に報給へかし)

 

 これを聞いた春原兄弟は…

 

春原兄弟「ウチら不肖の部下ではございますけど~…村上のヤロウは我々にとっても代々の主君の敵討ちでありますし~…その上に幸隆さまの仰せじゃあ…背くことなんてできないっスよ~」(原文:畏て我等不肖に候と雖も代々の主君の讐也、其上君の仰をいかて奉背べき)

 

 幸隆は喜んで村上義清を討つ作戦を練ります…。

 

 さて、こんなやりとりがあった後、なぜか春原兄弟の侍仕事はだんだんと忠実でなくなり、軍法を犯すわ、敵地に内通するわで、近所の国にまで噂になるような悪逆をするようになったので、幸隆は怒って彼ら一族の知行を没収し、追放してしまいました…。

 

 真田幸隆に追放された春原兄弟は、まず関東へ浪人としてあちこちの大名の家に奉公したり、また浪人になったりを繰り返し、その後で信州善光寺川中島のほうへ流浪して、ついに!…村上義清のところへ奉公に出ることになりました…!

 

 はじめは不気味がっていた義清でしたが…

 

義清「…コイツらは大敵真田の元家臣…うまくすれば幸隆の手の内が探れるかも…それに弟の惣左衛門は名高い勇士…ここは飼っておくか」(原文:大敵の真田の家臣なれば手立の様をも聞ん為也けり、又は小男惣左衛門とて国中に隠れなき勇士なれば抱置れけり)

 

…と、抱え置くことにしました。

 

 村上義清に仕えた春原兄弟は、昼夜問わず諸人に勝れた働きをし、村上家でも1、2を争う忠功ぶりで同心与力の職を預かる程になりました。

 

春原兄弟「…クク…うまくいったぜ…!」(原文:仕済たり)

 

…と、兄弟はさらに奉公に勤めます。

 

 すっかり兄弟を信頼した村上義清は、個人的に春原兄弟を呼び出し…

 

義清「オレはよォ~…オメエらの前の主君である真田のガキをブチ〇して安心してえんだよ……なんとかヤツを簡単に始末できるよう策略を練ってくんねかな~」(原文:其方の先主真田を討て安堵せんと思ふ也、兄弟の謀にて易く討ん事を調儀し給へかし)

 

…と頼みます。

 

 春原惣左衛門は「キタ━()━!」と思いつつも当惑した様子で……

 

惣左衛門「…そっスね~……オレ、砥石山生まれなんスよ~…だから真田の家にも旧友が多くいて、時々手紙やり取りしたり、酒を飲んだりしてるんスよね~……なんで、こんど白山権現に参詣するフリをして砥石城中に内通してみますね~」(原文:某は砥石山にて誕生仕たるに依て旧友多く真田の家に在り、折々は書状抔をも通ければ忍やかに白山権現へ参詣為たるとて砥石山の城中へ内通して謀を廻さん)

 

 義清にそう言った惣左衛門は、日が明けるのも待ち遠しいと1人で小県にやってきました。

 

 小県へやってきた惣左衛門は、夜中に丸山土佐、川原、矢野へ内通したあと、密かに真田幸隆とも対面します。

 そう!…実は春原兄弟の追放は自作自演であり、村上の配下になったのも壮大なスケールのワナだったのです!

 作戦が上手いこといった幸隆の喜びは並々ではありません…。

 

 さて、この日の夜中のうちに葛尾に帰ってきた惣左衛門は、村上義清に首尾を報告します。

 

惣左衛門「…義清さま~…オレ今日、白山に参詣して城中への通路を探ってたんスけど~…そこで旧友の川原惣兵衛にバッタリと会ったんスね~。

 あ、川原惣兵衛っていうのは、武州七党のなかで『私市』姓を名乗っていて、私たちの先祖と一緒に信州へ来た家のヤツなんですけどね…。」(原文:白山に参詣仕り城中への通路を窺んと社中に暫く居ける処に、権現の御引合にや古傍輩の川原惣兵衛と申者も参詣しけり、川原と申は、武州七党の内の私市の姓にて我等が先祖と信州へ一所に来る旧友也、拝殿にて礑と行合けり)

 

義清「へー…そんで?」

 

惣左衛門「ヤツとはマブ(友達)なんで~、すっかり打ち解けて、オレが真田を追放された話とか一部始終の話を一日中グチってきたんスよ~。

…そのとき惣兵衛のヤツ『オマエ(惣左衛門)、ずっと真田に仕えてたのに、くだらねーコトで一族ごと追放されちまってなぁ…こんなんじゃウチらもいつ切られるか心配でやってらんねーわ…丸山も、矢野も、深井も、宮下も、みんなで辞めて、浪人したら村上さまに世話になれればいいな…』って、言ってたんスよね~…。」(原文:互に懐ヶ鋪存する折柄なれば打解て始終の物語終日語りけるに、惣兵衛申けるは、其方も代々老臣也けるが少の事にて門葉悉く追放せられけり、我等を始め危き次第也、丸山、矢野、深井、宮下、何も譜代の面々も今日限りの奉公也、明日に浪人せば村上殿を奉頼、其方万事頼むと申ければ)

 

義清「へー…真田のヤツ…部下に嫌われてるんだなー…」

 

惣左衛門「そこでオレ~…惣兵衛に『それってさー、いいタイミングじゃね?…オレの今のボスである義清さまはさー“俺の部下になるなら望みの所領をやる”っていつも言ってるぜ!』って教えてやったら、惣兵衛のヤツ、めっちゃ喜んでましたよ…!」(原文:さらば能き序てなりと存じ兼て義清も各幕下に属し給事ならば望みの所領可賜なんどと常々のたまふなりと申ければ)

 

義清「おう!…いいぞいいぞ…ヤツの部下をどんどん引き抜くべーじゃね…」

 

惣左衛門「そしたら惣兵衛のヤツ『実はウチらも幸隆にはキレてっからさ、人数集めて来いよ。夜中に砥石城の中に引き入れてやるよ…そしたら簡単に幸隆〇せるべ?』って言うんですよね~…」(原文:惣兵衛悦び申けるは、さらば我等も幸隆に怨有ければ人数を催来り給へかし、夜中に城中に引入、安々と討捕申べしと手に取様に申たり)

 

と、惣左衛門は義清に弁舌鮮やかに申述しました…。

 この辺はどこが誰のセリフだか非常に分かりづらいですよね。要するに春原惣左衛門が村上義清に、小県での川原惣兵衛とのやり取りを報告しているワケですね。まあワナなんですけど。

 

義清「マジで!?…もうそこまで話がすすんでんのか~!!…おっし!…そーゆーコトならさっそく襲撃だー!!」

 

 すっかり春原惣左衛門の話を信じた村上義清は大喜びして、日程を決めて――春原の娘を人質に取ったうえで――春原兄弟を案内者にして、選りすぐった勇兵700余騎で真田の館を攻めます…。

(ああ…「春原が娘を人質に取置て」の一文が…嫌な予感しかしませんね。)

 

 話のとおり砥石城の門は開けられていたので、村上義清の兵たちは夜中、春原の案内で簡単に潜入することができました。

 

村上の兵「これはいいや…真田が寝てるウチにぶっ〇してやろうぜ」

 

…と、兵たちが二の丸まで詰め寄った時、春原が急に貝を吹き鳴らしました!

 

村上の兵「…え?」

 

 春原の貝笛を合図に前後の門が閉ざされ、閉じ込められた村上義清の兵は物陰から弓鉄砲で撃たれ…

 

村上の兵「ギャ―!!」

 

…彼らは700余騎のうち500余騎が討ち取られました…。

 

 明くる巳の刻(午前10時頃)、義清のもとに命からがら帰ってきたのは140~150騎くらいでした…。

 

 このことを聞いた村上義清は…

 

義清「…ブツブツ…中流に舟が覆り、一つの瓢箪(ひょうたん)が波に漂っていく…暗夜に燈火を消して、五更(真夜中)の雨に向かうようなもの…」(原文:中流覆舟一瓢漂波暗夜消燈向五更雨)

 

…とつぶやいた後…

 

義清「いや…後悔してもしかたないこと…」(原文:後悔詮なき事也)

 

…と続けます…。

 

 ところで村上義清が春原惣左衛門に騙されて兵を出した際、春原の娘を人質に取っていたのを覚えているでしょうか…。

 かわいそうに彼女は「牛割」に処されてしまいます…。あ、「牛割」っつーのは…興味あったらググってください…。

 前に紹介した長命寺の住持といい、この頃の人質はムゴイ目にあっていたんですね…。真田幸隆は春原兄弟に「兄弟の命を左京太夫殿への恩義に報給へかし」…と言っていましたが、身内がヒドイ目に遭う結果は切ないですね~。

 

 さて、さすがの村上義清も…

 

義清「究竟の兵を500騎も討たれては、もはや砥石城の奪還は叶わぬ…」(原文:究竟の兵挙つて五百余騎被討て難叶)

 

…と、自ら葛尾城に火をかけ、熊坂峠を越えて越後国に落ち、領地を長尾景虎へ差し出し…

 

義清「いつかは本領へ帰りたい…」(原文:此上は本領に帰ん事を奉頼)

 

…と願いつつ春日山城へ参上しました。

 

 幸隆の武略と春原兄弟の働きは、世に類なきものと武田晴信を大いに喜ばせました。

 幸隆には異例の御感状が送られ、春原兄弟には300貫文の知行があてがわれたうえ、直参に召し抱えられました。

 

 そして、海野幸義の跡目には海野太郎というのがいましたが…

 海野太郎は永禄年中に毎年信州に出張っていた晴信に気に入られず、侍共へ差し置かれました。

 

 海野の家は晴信の実子で「御しやうどう(御聖道)」(海野信親=武田竜芳のこと?)という盲目の子に継がせて、春原兄弟の兄のほう――小草野若狭守――を陣代に立てました…。

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原文

幸隆公常々心に掛りけるは一度敵を討て幸義の供養に報ぜんと心意をもやし、武田に属し本領には帰けれども村上義清を安穏に置事、無念と云も猶餘有とのたまひて家臣小草野若狭守、春原惣左衛門とて兄弟武勇智謀萬人に勝たる代々の老臣有り、幸隆公兄弟の侍を召ての給ひけるは其方先祖は武蔵国住人宣化天皇の末孫丹治姓にて熊谷、青木、勅使河原、安保氏を丹党と號す、熊谷の門葉分つて久下、熊谷、春原とて兄弟三家に分る、世の申浮沈にして関東より当国に来り我等が先祖に属し代々の臣たり、各存知の通、義清を討て左京太夫殿の御供養に奉報と度々及合戦と雖も大名なれば容易に可討様も無く年月を送ること無念也、兄弟の命を左京太夫殿への恩義に報給へかしと被仰ければ、畏て我等不肖に候と雖も代々の主君の讐也、其上君の仰をいかて奉背べきと申上られければ幸隆公不斜御悦有て、さらば手立を以て可討とて春原兄弟の侍連々不奉公にして家の法度を為背、或は軍法を犯し、或は敵地へ内通し、近国迄其隠なき悪逆を振舞ければ幸隆公立腹し給て一族悉く懸命の知行を没収して追放し給ければ兄弟先関東へ浪人として爰かしこの大名小名の家に奉公して又浪人に成り、其後信州善光寺川中島邊に流浪して終に村上義清へ奉公に出たり。義清も始めは心解給はざりけるが大敵の真田の家臣なれば手立の様をも聞ん為也けり、又は小男惣左衛門とて国中に隠れなき勇士なれば抱置れけり。兄弟粉骨を尽し昼夜の勤め諸人に勝ければ村上家にて一二の忠功の人となり同心与力をも預る程の身振也ければ仕済たりと思ひ、猶以奉公勤ければ村上運の尽たる処か、春原兄弟を私に呼て謂けるは其方の先主真田を討て安堵せんと思ふ也、兄弟の謀にて易く討ん事を調儀し給へかしと曰ければ願処也と思ひ胸騒てさながら返答に当惑しけり。惣左衛門申けるは、某は砥石山にて誕生仕たるに依て旧友多く真田の家に在り、折々は書状抔をも通ければ忍やかに白山権現へ参詣為たるとて砥石山の城中へ内通して謀を廻さんとて明日を遅しと只一人、小縣へこそ参けり。兼て巧みし事也ければ夜中に丸山土佐、川原矢野方へ内通しければ幸隆公不斜御悦有て密に対面有り、夜中に惣左衛門は立帰けり。扨春原は葛尾に立帰て申けるは、白山に参詣仕り城中への通路を窺んと社中に暫く居ける処に、権現の御引合にや古傍輩の川原惣兵衛と申者も参詣しけり、川原と申は、武州七党の内の私市の姓にて我等が先祖と信州へ一所に来る旧友也、拝殿にて礑と行合けり、互に懐ヶ鋪存する折柄なれば打解て始終の物語終日語りけるに、惣兵衛申けるは、其方も代々老臣也けるが少の事にて門葉悉く追放せられけり、我等を始め危き次第也、丸山、矢野、深井、宮下、何も譜代の面々も今日限りの奉公也、明日に浪人せば村上殿を奉頼、其方万事頼むと申ければ、さらば能き序てなりと存じ兼て義清も各幕下に属し給事ならば望みの所領可賜なんどと常々のたまふなりと申ければ惣兵衛悦び申けるは、さらば我等も幸隆に怨有ければ人数を催来り給へかし、夜中に城中に引入、安々と討捕申べしと手に取様に申たりと弁舌鮮に述ければ義清喜悦限りなく日並を選び春原が娘を人質に取置て小草野若狭守、春原惣左衛門兄弟を案内者にして勇兵を撰て七百餘騎、真田の館へ寄たりけり、兼て相図の事なりければ砥石の城の門戸を開て夜半斗に忍入ければ二の丸へ詰寄たる時、春原貝を吹立たれば跡先の門を固めて弓鉄砲にて物蔭より討ける程に七百餘騎の兵五百餘騎討取られ明る巳の刻斗に漸く百四五十騎遁れ落けり。此事義清聞給て中流覆舟一瓢漂波暗夜消燈向五更雨、後悔詮なき事也とて兄弟が人質を牛割にこそしたりけり。流石大名の村上も究竟の兵挙つて五百餘騎被討て難叶思はれければ城に火を掛け熊坂峠を経て越後国に落給ひ、同国に持給ふ領地をも上杉景虎え相渡され、此上は本領に帰ん事を奉頼とて春日山にぞ参られける。幸隆公の武略、春原兄弟が働き世にたぐひ無ければ晴信公被聞召不斜御喜悦、幸隆公へ異例の御感状有り、彼兄弟の侍をも被召出、三百貫文宛知行被宛行、直参に被召仕、幸義公の御跡は海野太郎と申て海野郷に小身にて御座しけるが永禄年中、義清越後へ浪人して景虎を御頼有しより毎年信州へ出張せられける折柄なれば海野御振あしく晴信公の御聞に達しければ御誅罸なり、雖然高家の跡なればとて侍共へ共侭被指置、晴信公の実子御しやうどうと申す、盲目にておはしますを海野殿に被成、春原が兄、小草野若狭守を彼陣代に立給ひけり。