加沢記 巻之一⑤ 沼田築城の事附家伝

加沢記 沼田築城の事附家伝
加沢記 沼田築城の事附家伝

主な登場人物

沼田景泰

 三浦景泰…しかし彼は宝治合戦の時に法華堂で自害したハズでは…?

沼田八騎

 鎌倉時代の人たち。

 沼田上野介、発知薩摩守、久屋三河守、下沼田豊前守、岡谷平内、石墨孫三郎、小川河内守、川田四郎幸清入道の8人。

 うち3人は特級呪物をもらう。

大友氏時

 刑部太輔。

 川場に館を立てた。

内容

 まだまだ本筋から離れた余談が続きます…あまり余談が長いとストーリーを忘れてしまいますよね。

 つーワケで今度は沼田家の話ですね。

 沼田家の由来についての話は諸説ありますが、『加沢記』では「桓武天皇の流れをくむ平氏の氏族である三浦氏を先祖としている」という内容が書かれています。

 

 桓武天皇の第五皇子で一品の葛原親王には2人の子がいて、兄が高棟王、弟が高見王と称し、この子孫は今(加沢平次左衛門の時代)の西洞院流です。

 高見王の子息、上総介高望王が「平」姓を賜り、子孫は平氏という武家になりました…。

 嫡孫の清盛は悪行があったので寿永年間(1182~84年)に源頼朝により滅ぼされました…。

 高望王の…(読めない部分)…為道は三浦長門守と号しました…。

 三浦為道の八代の孫、三浦景泰は上州利根の庄を領し、利根川と薄根川を前にする沼田庄に城郭を構えて住んだので「沼田景泰」と呼ばれるようになりました…。沼田氏の元祖はこの人です…。

 しかし…(この後の文が欠けている)

 

 「しかし…」何だよ!?…って感じで気になりますね~…加沢平次左衛門さんは、この後何と書く予定だったのでしょうか…宝治合戦のことでも書こうとしたのかな~?

 

 鎌倉北条九代の頃、諸国に大番役が命じられた折、「沼田八騎」と呼ばれ大番を勤めた者たちがいました…。

 沼田上野介、

 発知薩摩守、

 久屋三河守、

 下沼田豊前守、

 岡谷平内、

 石墨孫三郎、

 小川河内守、

 川田四郎幸清入道

…の8人です。

 

…それは後醍醐天皇の御宇だったと伝えられています。「大番役」というのは地方武士に京などの警護を命じたものだそうですが…この辺は伝説的な色合いが強い感じがしますが、鎌倉末期の話ですからね~。

 

 大番役を勤めた褒美として、沼田八騎それぞれが禁裡より拝領したものがあります。

 

 沼田上野介へは鞍鎧作りの免許が与えられました。代々鞍鎧作りの名人だったので、後の居城を鞍内と言うようになりました。

 

 発知薩摩守は龍田の紅葉を一本もらい、在所へ持ち帰って植え置き、そこに天神の社を建てました。そこを龍田と言うようになりました。「龍田」っていうのは大和国生駒郡の地名で、紅葉の名所というか、もはや代名詞のようなものですね。

 

 岡谷平内は岡谷村に守護を入れない綸旨をもらいました。「岡谷村守護不入の御綸旨」ってのは、治外法権のお墨付きをもらったようなもので、今でいえば「この先、日本国憲法は適用しません」みたいで、考えようによっては恐ろしいですね。

 

 下沼田豊前守は子息に真言宗の僧がいたので、高野山北の坊「清浄心院」で「下沼田氏が末代まで住持を勤める」との綸旨を拝領し、今の世(加沢平次左衛門の時代)まで下沼田氏にて続いているということです。…「清浄心院」てとても有名な寺院ですから、この記述がウソだったらメッチャ怒られるんじゃないかと心配だったんですが、ググったら「江戸時代初期当院を中興した三七世宣雅俊学房は上野下沼田城(現群馬県沼田市)城主織部氏の息といい、諸堂宇を造営復興した。」との記述がヒットしたんで、まあ全く無関係でもなさそうなので一安心…というか、あの寺院と沼田は少なからず縁があるってことですよね…これはちょっと(自分は自信ないのですが)深入りしてほしい。

 

 小川河内守は馬焼金をもらいました。この焼金を当てると、どんな病気の馬でも回復してしまうという奇妙な器物でした。

 

 久屋三河守は鉈をもらいました。「伐ろう」と思いながらこの鉈を当てれば、どんな木でもすぐ倒れてしまうという器物でした。

 

 石墨孫三郎は1年に2度花を咲かす牡丹をもらいました。

 

 川田四郎幸清入道は一人の息女を持っていました。その名を「円珠」という歌人でした。この歌を叡覧いただく願いが叶い、一首の歌を禁裡へ上げました。

 

  龍田山 紅葉を分て 入る月は

   錦につゝむ 鏡なりけり

 

 この歌を天皇が叡覧になって、

 

  かみつけや 沼田の里に まどかなる

   玉の有とは たれかしらまし

 

…と、御製の御歌をくださったということです。

 

 …と、ここは見てのとおり我らが円珠姫についての記述なのですが、この内容だと円珠姫が沼田八騎の川田四郎幸清入道の娘ということで、鎌倉末期の人になってしまうんですね…。

 ほかの史料との整合性を考えると「川田氏の一族には円珠という息女を持った者がいる」と考えるべきでしょうか…。

 まあ、そもそもこの章自体が伝説的な部分が多いところですからね。

 沼田八騎についても加沢平次左衛門さんが生きた時代から300年も前のことを書いてるわけだし…とにかく円珠姫についてはまだまだ謎が多いですね~。

 

 その頃の天下は不穏でした。諸国の国司が下向しましたが、上野国那渡郡へは後醍醐天皇の第六皇子、成良親王が征夷大将軍に任じられて下向されました。(「下向」っていうのは都から地方へ出張してくることです。「上野国那渡郡」は今の佐波郡玉村町周辺のことですね。)

 その時、沼田の守護職として大友刑部太輔が来て、川場の郷に住みました。今(加沢平次左衛門の時代)でも川場には大友刑部の屋敷跡がありますが、彼は観音を信仰して利根郡に33か所の観音を建立し、館から15町(1,636mくらい?)程の山際にも一宇の御堂を建て、館から廊下をかけ参詣したそうで、ここを「別所」と名付けたということです。

 

 大友刑部は鎌倉から恵齋禅師を招請して、青龍山吉祥寺を開基しました。(ちなみに吉祥寺の創建にについては『加沢記』の説以外にも、吉祥寺の権与記や円月禅師の自歴譜などがありまして、どれが本当なのかわかりかねますが、興味があったら川場村の歴史なども調べてみると面白いかもしれませんね。)

 

 さて、大友の奥方も信心深い方で、大友が逝去した後、青龍山の境内で大智庵祐宗比丘尼として行をしていました。

 彼女はその頃、如意庵に観世音を建てて、像の内へ仏舎利を籠めました…。

 仏舎利を入れた像の内部には書付がありました。そこに、何と書かれていたのかというと……

 

大日本国上州利根郡川場郷青龍山吉祥寺境内之大智庵祐宗比丘尼大友刑部太輔之御内也安佛舎利於舎塔二六時中勤行礼拝無間断有時勘原吾命弗幾後世真不具之者為容易如件思惟而安修観世音摩訶薩埵之像霊験猶如影隨形一切所求速遄成就衆生信進共成佛應安三年上章閣茂夾鐘十五日吉祥現住沙門大拙祖能襲記

―――――

内容「大日本国の、上州利根郡の川場の郷にある青龍山吉祥寺の境内に“大智庵祐宗比丘尼”っつー女子――大友刑部大輔の奥さん――がいてさ~…そのコは仏舎利(お釈迦さまの遺骨のかけら)を舎塔に納めて1日中、毎日休まずに拝んでたんだけどさー…ある時もう自分の寿命がいくらも残ってないコトに気付いたんさね~。それで彼女は後の世の人たちが世話ねーようにと思って、観音さまの像の霊験がそのお姿のとおりはっきりと顕現して、すべての願いごとが成就して、衆生が進んで共に成仏できるように祈願したっつうことさね~。応安3(1370)年2月15日…この文を書き残しとくかんね。吉祥寺現住沙門、大拙祖能より。」

―――――

 

 さて、書付はもう一つあります。

―――――

大日本国上野国利根庄青龍山吉祥寺如意庵水晶両壜如来舎利安観世音菩薩摩訶薩埵像其数百五十粒伏願此観世昔霊威如生凡有所祷如鏡現形如谷答響一々其所求常皆円満

應安五年歳次壬子八月廿二日

吉祥沙門祖能謹誌

―――――

内容「ココは大日本国の上野国利根庄にある青龍山吉祥寺如意庵…水晶のびんで如来の舎利150粒を観音さまの像に納めるぜ!…そして伏してお願いするぜ!…この観音さまの霊感が生きるように…祈りが鏡のように形をなすように…谷の響きに答えるように…願いがことごとく満ちるように…応安5(1372)年8月22日、吉祥沙門、祖能より」

―――――

 

 そして、またここで文章が欠けているんですね~。もしかしたら沼田氏の発祥について核心的な考察が書かれていたかもしれないのに…残念なことです。

 

 長禄2(1458)年、景泰の?代目の孫、上野介景康は、利根川と薄根川が落合う岸にあった当郡惣鎮守の武尊明神宮の社場が当国無双の地であったので、社人ナントカ宮ナントカの高井但馬を招いて「ここに城を築きたい」と願いました。

 明神の社は根岸に移築して、跡地には城郭が築かれました。

 

 明神の社があった所には大石が残されており、人々から敬われました。この石は、指で汚すと罰が当たったことから、後に人々から「殺生石」と呼ばれるようになりました。

 

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原文

桓武天皇第五の皇子一品葛原親王に二人の御子有り、兄を高棟王と称し、弟を高見王と名く、子孫は今の西洞院流是也。高見王の子息上総介高望王に始て平姓を賜り、子孫平氏として武家に下る。嫡孫清盛は悪行なりし故寿永元歴の間に頼朝卿興て門葉悉く滅び平氏断絶す。高望王の〈已下二行不見〉為道三浦長門守と号す、為道八代の孫三浦景泰、上州利根庄を領し 利根、薄根の両川を前に当て沼田庄に構城郭住し給ふ。去れば沼田景泰とこそ申けり。沼田氏の元祖是なり。然〈已下闕文〉鎌倉北条九代之時分、諸国より大番役を勤たりと伝聞、其頃沼田八騎とて大番を勤られける。其人々には沼田上野介、発知薩摩守、久屋三河守、下沼田豊前守、岡谷平内、石墨孫三郎、小川河内守、川田四郎幸清入道也。後醍醐天皇の御宇とぞ承る、大番役相勤ける賞として禁裡より拝領し給ひけるは、

沼田殿へは鞍鎧作り侯図御免許、代々作の名人故後に居城を鞍内と云り。

発知殿へは龍田紅葉一本在所へ持参いたし植置、天神の社を建られける、依て其所を龍田といへり。

岡谷殿は岡谷村守護不入の御綸旨拝領。

下沼田殿は子息に真言宗の僧有により高野山北の坊清浄心院を下沼田氏にて末代迄住持職の綸旨拝領、今の世まで下沼田氏にて続之来と云。

小川殿は馬焼金一本拝領す、いかなる病馬も此ヤキガネをあつれば本復奇妙の器物也。

久屋殿は鉈一挺是は何の木を伐らんと思しに此ナタを当れば。其侭倒れける器物也。

石墨殿は一年に二度花咲牡丹拝領也。

川田殿は一人の息女を持給ふ、其名を円珠と申し歌人也。此歌を叡覧の願相叶、一首の歌を禁裡へ上る、

  龍田山紅葉を分て入る月は

      錦につゝむ鏡なりけり

此歌を叡覧有て

  かみつけや沼田の里にまどかなる

      玉の有とはたれかしらまし

と御製の御歌を被遊被下けると也。其頃天下不穏、諸国の国司下向也。上野国那渡郡へ後醍醐天皇第六の皇子成良親王征夷大将軍に任じて御下向也。其時沼田の守護には大友刑部太輔殿御下り有て川場の郷に座す。于今屋鋪跡有り、大友ぬし観音を御信仰に依て利根郡に三十三所の観音を建立あり、館より十五町程有ける山際に一宇の御堂を建て館より廊下をかけ参詣すと也。此処を別所と名くると也。又鎌倉より恵齋禅師を招請し給て青龍山吉祥寺を開基し給けり、御奥方も信心深く渡らせ給て大友ぬし逝去の後、青龍山境内に大智庵祐宗比丘尼とて行ひすましておはします。其頃如意庵に観世音を建て像の内へ佛舎利を籠られたり。則ち其像内に書付有り、文日

大日本国上州利根郡川場郷、青龍山吉祥寺境内之大智庵祐宗比丘尼、大友刑部太輔之御内也。安佛舎利於舎塔、二六時中勤行禮拝無間断、有時勘原吾命弗幾、後世真不具之者為容易、如件思惟、而安修観世音摩訶薩埵之像、(覚堂曰、上文恐有誤脱乎)霊験猶如影隨形、一切所求速遄成就、衆生信進共成佛。應安三年上章閣茂夾鐘十五日、吉祥現住沙門大拙祖能襲記。

大日本国上野国利根庄青龍山吉祥寺如意庵、水晶両壜如来舎利。安観世音菩薩摩訶薩埵像、其數百五十粒。伏願、此観世昔霊威如生、凡有所祷、如鏡現形、如谷答響、一々其所求、常皆円滿。應安五年歳次壬子八月廿二日、吉祥沙門祖能謹誌。

 

(此処、闕文あり)景泰ヽ代孫上野介景康代に至り、長禄二戊寅年利根、薄根両川の落合の岸、当郡惣鎮守武尊明神宮社場、当国無双の地たるに依て社人ヽヽヽ宮ヽ高井但馬を招き城を築かん事を請給ふ。扨明神の社は根岸に御建立有て城郭に築給ふ。依て明神の社跡に大石を残し置き人民敬之けり。後に此石を指〆けがれければ、忽ち罰当ければ殺生石と世の人申あへり。