加沢記 巻之一⑦ 鎌原以忠節信玄吾妻郡御手に入る事

加沢記 鎌原以忠節信玄吾妻郡御手に入る事
加沢記 鎌原以忠節信玄吾妻郡御手に入る事

主な登場人物

武田信玄

 16歳の時に平賀玄信を倒す。その頃は晴信。

 信玄が初陣で玄信を破ったレジェンド。

 筆まめ。

 あと『加沢記』に書かれている上州進出の年代をあまりムキになって議論してはいけない。

鎌原幸重

 宮内少輔。

 信玄に取り入りたくて仕方ない。

 せがれに重澄がいる。

真田幸隆

 鎌原を甘利を介して信玄に紹介する。

 今回はあまり出てこない。

齋藤憲広

 越前守。

 鎌原をぶっ〇したくて仕方ない。

羽根幸世

 道雲入道。幸全?

 鎌原と仲が悪い。

 戦闘民族。

内容

 長いことストーリーの本筋から離れた余談が続きましたが、この章からようやく前々々々章の続きに戻ってきます。もう真田幸隆がどうなったか忘れちゃった~…でもこれが『加沢記』の魅力ですね。

 

 さて、武田信玄は天文(1532~55)年中から信州へ出張(デバ)り始め、16歳の時に平賀玄心法師(平賀玄信)を討って平賀の城を攻め取ってからは上州へも手出しを始め、永禄(1558~70年)の始め頃から徐々に出張ってくるようになりました。

 

 さて、清和天皇から28代目の子孫に鎌原宮内少輔(幸重)という者がおり、信州と上州の境、浅間嶽の麓にある三原庄を数代にわたり領する地頭をしていました。

 鎌原家は文明(1469~87年)の頃から管領の上杉民部太夫顕定に属して関東で仕えていましたが…

 天文(1532~55年)頃から関東管領の上杉憲政が権威を失い、所々の城主が兵乱を起こし「大身が小身を掠める」ご時世となりました。

 吾妻では太田庄岩櫃城主の齋藤越前守藤原憲広入道一岩齋が周辺を牛耳っていたので、鎌原も彼の指示に従っていました……が!

 

 鎌原は世間の成り行きを見て…

 

鎌原「信玄がどんどん強くなってるな~、何とかしてアレに取り入りてーな~」(原文:信玄公追日威を振給ける、何卒幕下に属せん)

 

…と明け暮れ考えていました…。

 そんな時、真田幸隆が帰ってきて小県郡に住んだので…

 

鎌原「…そういえば真田のヤツ、本領に帰ってきて、今小県郡にいンのか~…ちょうどいいや!…アイツに頼むべぇ」(原文:幸ひ一家の幸隆本領に帰し小県郡に住給ければ幸隆を頼ん)

 

…と嫡子の筑前守(重澄)と相談します。

 

 鎌原から「信玄に取り入りたい」と相談された幸隆は喜んで…

 

幸隆「…おッ!…イイね~!…そしたら小諸城主に甘利左衛門尉つー信玄公の無二の臣下がいるからさ~…ソイツに仲介してもらうべーじゃね!」(原文:小諸の城主甘利左衛門尉こそ信玄公無二の臣也ければ左衛門尉を以て披露し給ん)

 

と信玄が信州に来訪するのを待ちました…。

 

 そして永禄3(1560)年の春、ついに信州の平原において鎌原父子は信玄へ仁義を切ることができました。

 

 信玄は鎌原父子が配下についたのをとても喜んで…

 

信玄「おう鎌原!…これからヨロシクな~!…オメーら何とかウマいコトやって齋藤のヤロウをぶっ〇してくれいな~…頼んだで!」(原文:何とぞ計策を廻らし齋藤を討捕給かし)

 

…と伝えました。

 それで鎌原父子は昼も夜も謀略を考えていました。

 翌(1561)年11月、信玄が西上州へ出張ってきましたが、その時に鎌原が信玄からもらった手紙が…

―――――

調略故其許時宜可然様に候哉本望候、此表追日任存分候、就中昨日高田降参、今日は休馬、明日より向于国嶺可及行侯、近日分人数其筋へ可遣候條、弥相調侯様無油断計策専一侯、恐々謹言。

 十一月十九日 信玄(判)

―――――

 内容は…

「オッス鎌原!…前に言った調略のことだけどさ~、オメーなんが「ココだ!」と思ったタイミングでやればイイからな~…楽しみにしてるで~!…まあゆっくり存分にやれやな……俺のほうはよ~昨日、高田のヤツを『キャン』言わしたからさ~、今日は休んでるんさね~…。明日は国嶺のほうに行ってみるかな…。まッ…近いうちに何人かそっちに送るからよ~、気を緩めねーで作戦がんばれよな!」

―――――

 鎌原は信玄からの手紙を読んでから、より齋藤方へ対する態度が悪くなりました。

 齋藤憲広入道は…

 

齋藤「コイツ(鎌原)…最近なんだか危ねーな……三原庄のなかでも、羽尾道雲入道(幸世)は鎌原とは同じ一族だが、最近は仲悪いみてぇだな…ヤツ(羽尾)に〇らせるか…」(原文:無覚束……同三原庄の内、羽尾道雲入道は鎌原と一族成りけれ共近年不和の儀有り、以羽尾鎌原を可討)

 

…と企みます。

 ちなみに鎌原も羽尾も滋野氏ですね。

 

 齋藤憲広は塩野谷将監入道、羽尾入道の両者に鎌原の館を攻めさせます……が!

 鎌原の館は優れた要害にあり、さらに一族の浦野下野守、湯本善太夫、横谷左近等が鎌原の味方をして邪魔をしました……

 

齋藤「…チッ!…クソ野郎どもが…こうなったら大戸真楽齋に頼んで和解するっきゃねえ!」

 

…と、齋藤の鎌原ぶっ〇す計画は失敗に終わりました…。

 この小競り合いの後も齋藤は鎌原に心を許しませんでした…。

 鎌原のほうでも、表面上は齋藤に敬信しているフリをしつつ、心中では…

 

鎌原「(今回の件をきっかけに何とか齋藤の野郎をカタにハメてやりたいぜ~)」(原文:何卒此度の序を以て謀を廻さん)

 

…と考えていました。

 

 そこで、鎌原は齋藤の家来で岩下の地頭である富澤但馬守行連という者に目を付けます…。

 この富澤行連というのは、先日鎌原の味方をした横谷左近太夫の姉婿でした。

 鎌原は…

 

鎌原「…なあ行連~…オメエ入道(齋藤)の甥っ子の弥三郎に接触してさ~…オレが良からぬコトなんか企んでねーって印象を植え付けてきてくんねーかな~…もちろんそんなんウソでそのうち岩櫃は攻め取っちまうんだけどよ~(笑)」(原文:入道に二心無き様にもてなし岩櫃を攻取べし)

 

…と、富澤行連を利用して齋藤憲広の甥、弥三郎に内通することに成功しました…。

 

 鎌原の思惑どおり、憲広は心を許し油断しました。

 鎌原は…

 

鎌原「うっし!…チョロイぜ!…さっそくこのことを甲府へ報告だ~!!」(原文:此儀は早々甲府へ注進せん)

 

…と、黒岩伊賀という者を使って密かに報告したところ、信玄は感動してお礼の手紙をよこしました。

 信玄からの手紙には、

――――――――――

翰札被見、其谷之模様被申越候、何も不届無餘儀侯、殊に密々之儀得其意候、然者早々著府待入侯、委曲自甘利所可申越侯、恐々謹言

 六月二十七日 信玄(判)

――――――――――

内容は…

「おう鎌原!…手紙読んだで~…そちらの様子は大体わかったぜ~…特にオレからの意見はねえが……まあバレねーようにやんねーとだからよ~…とりあえず一回コッチに来てくんねーかな?…待ってるで!…詳しいことは甘利に伝えとくわ」

―――――

…と書かれていました。

 黒岩伊賀がこの信玄からの手紙を持ってこっそりと在所に帰ってきたので、鎌原宮内少輔は喜び、黒岩に褒美として彼の在所である今井の郷での「池川殺生一切の免許」(魚とかの猟の許可かな?)を与えました。

 鎌原は信玄の手紙にしたがい、長男の筑前守を甲府へ参陣させると、信玄はとても喜んで、色々と褒美をくれました。

 そして齋藤の事について細かくヒアリングをした上で…

 

信玄「おっし!…タイミング見計らって討手を送る込むべえ!」(原文:さらば討手を可差向)

 

…ということになりました。

 

 こうして、真田幸隆と甘利左衛門尉を大将に、曽根七郎兵衛を旗本検使に、ほかに信州先方として芦田下総守、室賀兵部太夫入道、相木市兵衛尉、矢澤右馬介、祢津宮内太夫、浦野左馬允らを加えた3,000余騎が、大戸口と三原口の両手から押し寄せました…!。

 なお日付は「同年八月」とありますが、どこをもって同年としているのかわかりません。書き写した人も(それとも原文がこうだったのか)「おって考えよう」って言ってますね。

 

 攻め込まれた齋藤は…

 

齋藤「…ゲェッ!…信玄!?…マジかよあんなん勝てっこねーわ……しゃあねえッ!…善導寺の住僧に仲介してもらって降参すべえ…」(原文:難叶)

 

…と泣きをいれました…。

 

 こうして齋藤の降参を受けた武田方は、人質を受け取って、ひといくさもせずに帰っていきました…。

 

 

facebookリンク

原文

信玄公は天文年中より信州へ出張有て、十六歳の御時平賀玄心法師を討捕、平賀の城を攻取給ひ、其より上州へ御手立有り、就中永禄の始より折々出張有けり。爰に清和天皇より廿八代の胤孫鎌原宮内少輔と云者有り、信州上州両国の境、浅間嶽の麓三原庄を数代領せし地頭なりけるが文明の頃より管領上杉民部太夫顕定公に属し、関東に伺候しけるが天文年中より憲政威を失給てより所々の城主そばだち兵乱しければ大身は小身を掠ける折成れば其頃吾妻の太田庄岩櫃の城主齋藤越前守藤原憲広入道一岩齋、近邊を押領しければ彼が下知にぞ随ひける。鎌原つらゝゝ世上の成行を見るに、信玄公追日威を振給ける、何卒幕下に属せんと明暮時を待て年月をぞ送ける。幸び一家の幸隆本領に帰し小縣郡に住給ければ幸隆を頼んとて嫡子筑前守と相談有て此由を申されければ幸隆も不斜悦び、小諸の城主甘利左衛門尉こそ信玄公無二の臣也ければ左衛門尉を以て披露し給んとて信玄公の信州へ出馬を奉待けるに頃は永禄三年の春、信州平原に於て筑前守父子御礼し給ければ信玄公喜悦不浅して何とぞ計策を廻らし齋藤を討捕給かしと謂てければ旦暮其謀を廻しけり。翌年十一月西上州へ出張の節、鎌原へ御出有り。

 調略故其許時宜可然様に候哉本望候、此表追日任存分候、就中昨日高田降参、今日は休馬、明日向于国嶺可及行侯、近日分人数其筋へ可遣候條、弥相調侯様無油断計策専一侯、恐々謹言。

  十一月十九日  信玄(判)

鎌原此御書を謹て拝見して後、猶以て齋藤方へ不忠に見えければ憲広入道も無覚束思はれければ同姓三原庄の内、羽尾道雲入道は鎌原と一族成りけれ共近年不和の儀有り、以羽尾鎌原を可討と評定し給て塩野谷将監入道、羽尾入道両手にて鎌原が館へ押寄合戦有けるが究竟の用害也、一族浦野下野守、湯本善太夫、横谷左近等身方をして横切しければ齋藤も不叶して憲広は大戸真楽齋を以て和談しけり。去れ共齋藤も鎌原に心を免す事成ければ鎌原も敬信して見えたり。何卒此度の序を以て謀を廻さんと思ひ齋藤が家の子、岩下の地頭富澤が惣領富澤但馬守行連と云者有り、是は横谷左近太夫が姉聟也。かれを以て入道の甥齋藤弥三郎に知音して入道に二心無き様にもてなし岩櫃を攻取べしと思ひ、弥三郎に申入ければ案に不違入道も心打解たりければ此儀は早々甲府へ注進せんとて、黒岩伊賀を以て密かに甲府へ注進しければ信玄公感じ給ひ御返札有り、

 翰札被見、其谷之模様被申越候、何も不届無餘儀侯、殊に密々之儀得其意候、然者早々著府待入侯、

 委曲自甘利所可申越侯、恐々謹言

  六月二十七日  信玄(判)

とぞ書れたりけり。黒岩此返札を被持て忍やかに在所に立帰ければ宮内少輔悦て黒岩が在所今井の郷に池川殺生一切免許し給てけり。長男筑前守を甲府へ参陣しければ信玄公喜不斜、種々褒美賜て齋藤が事一々御尋有り、さらば討手を可差向とて幸隆公甘利左衛門尉を大将にて御旗本検使として曽根七郎兵衛、其外信州先方芦田下総守、室賀兵部太夫入道、相木市兵衛尉、矢澤右馬介、祢津宮内太夫、浦野左馬允等都合三千餘騎、同年八月(日付追而可考)大戸口三原口両手に分て押寄給ければ齋藤難叶や思ひけん、善導寺の住僧を以て降参を請給ければ人質を請取、一軍に不及帰陣有けり。