『沼田記』続々群書類従より

※この『沼田記』は伝承色が強く、直接史実に結び付けられるようなものではないと思われます。

 

 また前期(大友系)沼田氏、後期(三浦系)沼田氏も混同され、世代にも相当ずれがあり、代々の当主の名称も法城院の三浦沼田氏系図とは異なっています。

 

 『沼田町史』を参考に、この文中に登場する人物を三浦沼田氏系図に当てはめてみると…

 安泰…景長(2代)

 常泰…景盛(3代)

 泰景…景継(4代)…のことについて書かれているのかな…と

 景貞にいたってはずいぶん世代が飛んで景義(14代)のことを書いているのだと思われますが、ずいぶんと情けない…。

 

 しかし、内容はとても面白いので、ぜひ読んでみてください。

   沼田記

 

抑沼田之初其根元監、赤城山、子持山二相続、一面ニハ谷川山、武尊山、其内広々満々たる湖水二千幾歳ヲ不知、伝所人皇四拾代天皇白鳳十三年正月、日本大ジシン、諸国山崩レ、水涌出ル、人民六畜死スル、伊予国温泉埋ム、土佐国田地五拾余萬頃没、伊豆国二俄ニ一ツ之嶋出、上野国北山湖水ワキ出、上野下総押流、今爰以監にアマド切破、其跡自然と掘流行、下総国流出村と申処に赤城山大権現御留り、末世之印也、其後人皇四十八代称徳天皇天平神護元年七月、僧勝道初テ下野国荒山大権現開キ、日光山是也、同時赤城山開キ、扨又湖水跡何分旧事不知広原也、自然ト不控、民家遠国他国より集り来り、隠里と名附、雪霜陰有之、然共次第ニ縄詰り家作り繁昌ス、壱番ニ和田之庄、二番ニ庄田庄、三番ニ恩田之庄、四番ニ硯田庄、五番ニ川田之庄、六番ニ下沼田之庄、七番ニ町田之庄、是ヲ七田之庄と名附、地頭も無之年年暮シ、仏神祭る事も不知、鳥類畜類のごとく、川狩野狩リヲ業として蕃、然処に人王六拾代村上天皇天慶之頃、相馬将門一乱ニ関八州騒動止ム事なし、其頃都より平氏何がし流浪と成リ庄田之庄へ来り居住シ、所之者帯刀ヲ不知ヤ恐崇敬ス、月日を増主君之ごとくかしづき、近郷之者集リ崇敬ス事言事なし、文武両道兼備誠にケイナリける人成、後には和田之様と申ける、然処庄田之一女嫁し、位フリ類なき一子を出生し、何れもかつごう仕、和田四郎と申ける、拾五歳之頃、鹿狩野狩ヲ業として、七田之庄官トナリ、其外近郷之もの控集り、壱番ニ師之住人、二番ニ石墨之住人、三番ニ真庭之住人、四番ニ後閑之住人、五番ニ瀧棚之住人、同根岸之住人、六番ニ牧之住人、七番ニ岡之住人、八番ニ発知之住人、九番ニ川場之住人、十番ニ生品之住人、拾壱番ニ古語文之住人、何れも集リ崇敬ス、和田四郎成人シ丑田之庄ガ娘嫁ス、繁昌し、庄十壱之番ヅ、之住人駒之立どなし、あるとき和田之庄申やう、我父都より流浪之身なり、不思議に天道に叶如斯繁昌する事神徳なるべし、鎮守を祭り子孫之氏神とせん、上之山に社ヲ立、三峰山大明神是都之神也、扨又和田之庄司一子出生歓際なし、其名を和田之太郎殿と申ける、成人弥増、右拾壱人之住人カツガウ際ナク、先例に志たがひ、三峰山ヲ祭リ、先組之改和田太郎、平経家と名乗り、武芸弓馬ニ強ク、諸国六芸之達者召呼れ、さながら一騎をも取立、保元平治一乱に平之清盛天下一等権柄ヲ取、依之武蔵上野下野之流人我もゝゝと馳集る由聞伝、我も古へは平氏也、今不出者何世に可出と、経家拾八歳、上下人立之番ニ師左京、二番恩田兵部、三番下沼田舎人、四番町田主計、五番ニ硯田平馬、六番ニ川田図書、七番ニ庄田丹宇、合テ弐拾人、上下共出立いさみける、程なく京着ス、大将清盛訴を申上、清盛武将左様也、目見へ申ける、経家御能上意たり、沼田之始終問迄言上、依之沼田、利根勢田両郡之主たるべし、安堵之御教書被下、暫在京可致と被仰附候、其外武蔵之七党、上野ノ八党、下野ノ七騎在京ニテ、経家両郡之庄官免許を給リ、其名を高クあらはし、翌年帰国、両郡之主萬歳トうたいける、七田之庄拾壱番之住人門前に市を成、有時経家我かく官位登リ、能場所見立一城を築ベし、如何々あらんと申ける、今の住居之場せまし、依之小沢原能所成、吉日をゑらび、土手堀リ二重に可致由、外堀深サ三間、敷高サ九尺、内堀深サ五間、弐間半、土手弐間、近郷百姓役公屋敷、本丸共ニ年中ニ出来致候に付、町屋敷割和田之庄不残引取、小沢之城名付、丑寅之方に当、瀧本山小沢寺祈願寺立、萬歳を謡、七田之庄拾壱番之家申立テならべ、此城一方川有、本丸之方に致候小沢川卜名付、扨又位勢日々に増、然る所に小川住人名作之住人、羽場之住人、布施之住人、須川住人、右四人御旗本に奉願、其上東は平沢住人、生井住人、追貝之住人、日ニ御はたしたに被遊被下と願出、其外数を不知馳来り伺公ス、其節古椀着類切レ古物流出候、御吟味被遊、若後日如何あらんと申上、依之牧之住人、後閑之住人、小川之住人、右三人大勢添山を別尋見所に、高山之岩根に稲荷あり、立寄見れば老人男女居る、是は何方よりかゝる片地に居る、真すぐに申せ、鎮ずるにおゐては今打殺と、てんでに太刀に手をかけひねりけり、老人答テ、我々奥州より迷ひ候者成、奥州乱世ニ山越、是まで罷出けり、越後之山里に参り、飯米を支度致、平日は猪鹿申を取リ給物に仕候、貴公様方は何方より御出被成候、我々は是より十四里程里に出、此国之大将より位を蒙り参候、扨又此国に御大将御座候はゞ憐レ御慈悲に御手下に被成被下候はゞ難有奉存候、其名を何と申ぞ、乍恐それがし阿部之末流宗家卜申者、先祖は壱騎前も仕候、倅弐人御座候、被召寄御出被下置候はゞ難有と願候、私義は明日不存、依之谷深ク奥州道遠し、其故藤原ト申候、然ば大将へ申上阪、此地被下置随分切開可申候、私一類共越後之山里に長男壱人御座候被召可被下候、則野人ふとく、阿部之力丸卜名乗申候、此段御大将へ申上、御悦際なし、然る所へ東入より申上候は、壱番に花咲之住人、腰本、土出、小川、右之村々之住人、其外大勢にぞ願出るは、我等住居仕候山奥も人間共不知、悪鬼共不知、住居之里ヘ出候、人を追払ヒ給物をかすめ取、民家をなやませ、御退治被仰附被下置候はゞ、本山に入手下に可罷成、然ば案内可仕候、壱番ニ川場之住人、二番ニ古証文之住人、三番ニ岡之谷之住人、四番ニ生品之住人、五番ニ発知之住人、六番ニ平沢之住人、七番ニ生井之住人、其外東山に入者、土出之住人、小川之住人、腰本、追貝之住人、其外名有者共里々村々より吉日をゑらみ、惣人数千人之余打立、籠居賊人皆阿部之末流、有時者湖水勢多郡深シ、扨々たやすく返成候、阿部貞任末流ならん、奥州よりまよひ出、此所に住居する也、折々奥州方会津へ相出、押取切取ヲ業として月日を送り、人之妻子を取、又は此東山入て妻子をうばい取、志ゆでんどうじのごとく也、依之大将経家出馬、東西北に人を廻し、食責可致候、大手からめ責けるに、大勢に無勢昼夜不限責られて、うへに及し大将を生取、経家前に引出ス、己何者成、此山に住居して氏家をなやます、阿部之貞任宗任暫此所に志のび罷有、我は多勢丸と申者、住家無之此所に数年罷有、猪鹿申飯食仕、今如此むねんの次第と歯がみをなして申ける、則首打落ごく門に懸たりけり、其外同類打殺したり、所々うばい取たる男女古郷へ帰しける、大将経家帰陣候、大小太刀在々所々御褒美被下候、

一、人王八拾代高倉院御宇清盛悪逆、木曽義仲信州より一揆起シ、北国西国不納、関東には頼朝公寄々廻文、義経忍ヒ奥州、隠便ならず、石橋山合戦発り、経家熊谷治郎ニ由身有故同道シ、壱番ニ馳向、夫より頼朝打負、上総義助同ク心ヲ合打勝チ、頼朝萬歳後、経家近習たり、上総之助加勢関八州人数百弐拾萬騎、夫より頼朝義経心を合打勝、頼朝萬歳也、経家近習たり、沼田之城主永代安堵同御教書被下、鎌倉に在番ス、翌年帰国之暇被下、沼田へ帰城ス、経家嫡男三つ峰に登り、其名を改沼田左衛門之尉平経信、次は女子うつも利根姫と申、器量余にすぐれ、夫婦の御てうあい世にあまり、然る処に経家七田之庄十壱番之住人召寄、此所暫住居するといへ共、城内せまし、是より向瀧棚之原城内広ク取立可申と被仰付、夫より吉日を撰、是北東西岩、南壱方原也、縄張外堀内堀本丸三之丸構、小川之堀を引払、士屋敷、町屋鋪移シ、其上根岸之瀧棚へ民家引移、栄作出来、則瀧棚幕岩之堀ト名附ル也、経信に師兵部娘嫁ス、男子出生、則兵部うぶ親にす、然処利根姫美女たる事、頼朝悦義無際、経家も弥出当也、程なく利根局懐妊と聞へける、然処政子聞給、下部に申付、利根をうしない、夜に入可参段申付給ふ、頼朝聞付、然者其侭には叶まじとて、代官等に被下、其夜こしに乗せ、西国方へ遣とかや、其働衰気之藤九郎あり亦懐略と成、政子承失可申段、美女たる事、頼朝之召寄、則丹後之局と申、御てうあい無際、又懐略政子承失可申段、下部に申附、あやうき所に、本多何家に頼朝被仰附、こしに乗、其夜大坂さして急ける、住吉迄にぞ行暮、庵室有、立寄見れば、庵主右行之もの伴女子を連、一夜は安事、只々一夜頼と、本多則丹後之局御入、急にいたはり、夜半時分出産之気ざし有、牢坊本田立さはぎ、近所氏家を尋、老女をたのみ取上、玉の様成男子也、片わら成信家をたのみ、月日を送り、此若君成人には不成、随分と大切にいたはり、年月をへて、既に拾壱歳之頃、頼朝公大仏供養に上京之砌、本田丹後之局打連れ、御若君諸共に御先にたゝずみたり、御先払之武士何者成とあやしみける、本田罷出、我々御訴訟申上度事御座候、此段申上、頼朝公御目通へ被召出御免有、御こしより飛出給ふ、扨々本田が忠節、丹後局がふし物不具、則秩父之重忠へ被仰付、旅宿改大勢之人々終計也、夫より其名を改、鳴津之三郎と申、大隅、薩摩両国ヲ被下とかや、扨又経家倅左衛門殿、頼朝下向之後、鎌倉へ被召寄、経家老衰たるに依て、沼田其方自今安部為ベし、経信難有仕合奉存候と沼田へ帰国ス、沼田勢多利根両郡之由来書附出可申段、重忠を以被仰附乍恐帰城ス、家中之面々途中迄罷出恐悦申上ル、経家老病養生不叶死去、経信初家中闇夜之ごとくなり、古城を名附、法城院殿心岸主田大居士卜号ス、元亀三庚午六月十五日也抑沼田利根郡と申事、其水上は奥州金花山、其先はあや切湖水干形ナリ、たへず流出ル、金花山裏通りにて、金水たへず、凡沼田より三拾里程奥にぞ金水流るる也、利金水之文字返して利根利金相生乃義を取なり、扨又勢多郡と申事、従沼田廿五里程奥に湖水あり、大湖水多勢丸住居之場ゆへ、おぜの沼と申なり、此流は勢多郡俗に多勢之沼と申也、

一、人王四拾五代聖武天皇之御宇、行基大師吉備大臣入唐帰朝之砌、日本三拾三箇国六十六箇国に改、後諸国順見、然所奥州小田郡より黄金出る、初而献上する、依之金水故利根川と申事也、沼田左総門平経信は父におくれ安事、家老家之子召寄、我かんがへる所、此城大鋪居所にあらず、是より下瀧、棚倉懸ケと申所如何に候哉、壱番に師兵部、恩田舎人、庄田隼人、硯田左京、平沢豊前、仰御尤に存候、御忌服明候はゞ、彼仰附可然と御請申、材木は川田より可出、月日送り、経信忌服済、夫より吉日を改、本丸三之丸両輪構屋敷町割普請年中に出来候、移徒視義にて、家中萬歳楽謡けり、然る処鎌倉より申来り、実朝公天下之譲を請、頼家不行跡たるに依り、鎌倉に馳登り、継目申上、御礼相済、御教書頂戴、帰国家中之面々途中迄御迎萬歳謡けり、其上川田の住人平井右近一女嫁ス、則城入済、蓬莱を荘り婚義整ける、然る処十月より大雪降、東西南北之往来留、凡雪壱丈余有之故、死するもの多し、経信米石を出し民を救ル、則経信一女、次は男子也、成人之後、女子は下沼田之庄婚義被下、次男今年十五歳、父に勝テ武道能、則三峰山エ登、氏神を拝シ泰経卜名乗、家禄を継、家老家子一等に恐悦申上、然処鎌倉より飛脚到来、実朝公逝去、依之御世継無御座、執権陸奥守平之義時、政子と談じ、京都関白道家公四男頼経と号、天下政子簾中政取、依之泰経鎌倉へ馳登り、継目御祝義申上、御教書給帰国之願、其上北上野、沼田、片地取、山賊強盗さかんにして難鎮、依之早早御暇願上出立可有候段被仰附帰国ス、家老惣家中途中迄罷出帰城ス、千秋謡相済、有時泰経申様、我両郡之境を不知、誰か参候は可相究候哉、恩田舎人、師兵部、和田之庄司、平井右近、右四人境目可遊と被仰付、先壱番沼甲之舟渡境とす、夫より戸鹿野舟渡越あやと坂峠境を立、夫より空沢通り、夫より不動峠境を立、爰に名胡桃住人鈴木内匠と申一騎当千之者罷出、御先祖御先仕リ、人数合テ夫より須川大度峠と申所へ出垣立、夫より布施猿ヶ原と申所へ出、長井三国峠へ懸り、社人罷出申様、伝承候、古へ行泰大師御通り之節、飯場御見立、則三社権現之印立、是三国之境なりと被仰、其後往来之者難所を安事参り、銭を掛置たまりて神社と成、

  上野国赤城山

  信濃国諏訪  是則三国三社権現也

  越後国弥萬孫

此所を境と遊下向、猿ケ京に帰、夫より湯原卜申処に案内、峠を越湯原より谷川、此所より越後通り有之と聞、成程歩行道御座候、越後何と申処ニ出ル、山里と申所へ出候、夫より段下り、米石洞と申所エも出候と申上ル、此高山越後迄上州境と定、不尽山卜申、又奥に藤原と申所有、奥州迄谷ふじゆへ、不尽原と申、是より奥州何程有と申、大方十里余も参道無シ、大木之下又拾里も有之、奥州金山之裏へ出、夫より御通可被成候、我々此谷は被仰附候而も、鬼神に而も及不申候、然者末々可遊卜、夫より湯原へ帰り、川を越、牧村に出、是より佐山村へ越シ、案内罷出、大沼村を越御案内、左之高山は何と申、是は天ふだんゆきふり申候、夫より発知村へ出侯、此所に木村宇母と申者永ク御座候御案内、扨又此向山は何と申、此山は弘法大師諸国廻り之時、此所へ御出、大唐之五大山□、太瀧蔵山と被仰一ウ可有と被仰、依之所は麓壱ウ建立仕候、其後は庵主も無御座候、金山の水流なり、此山所之もの申には、発知山と申、夫より川場へ御案内可仕候、川場より案内とうげへ被出、このところにゆしま庄司御先を仕、一宿あそばされ、是より古証文むらやまのふもとをとおり、ひらさはと申ところへ出、爰に平沢豊前と申もの御迎に出、生井村、棚村之もの共御迎に罷出、是より東谷入へ可参被仰付、此奥山雑所にぞ人馬立兼候由申上、是より会津通り東入へ廻文を遣シ御迎罷出、追欠村金子之住人、小河平沢之住人、土出村星野住人、腰本村田村住人、右之者共御先払、戸倉と申処へ付、里々村々谷々之者集り、是より会津迄何程有ぞ、如何様八里計り御座候と申上る、馬足立不申、則戸倉、土出、小河へ被仰附一宿被遊、此山奥は何と申所ぞと御尋、去古阿部之多勢丸と申盗賊此里をなやましゝを、御先祖御退治被下、今は安隠ニ御座候、其先は何共知り不申、奥州程近ク御座候利根川之本なり、金山之裏へこの多勢丸之湖は皆勢多郡会津之境究、夫より御帰沼田に右之趣段々言上ス、泰経、師左京娘婚礼ス、城入相済、家中恐悦申上、萬歳謡、泰経申様、領分之道橋随分能、民之困窮無之様可致、薄根川橋三箇所懸片品川地領入合、沼須舟渡、利根川、戸鹿野むらふな渡、後閑むら船渡可然、出水等有之ば、日本一之要害名城也、経泰男子出生歓なり、然処ニ鎌倉より廻文来り、今度頼経公逝去、頼嗣公へ御世を譲申候、早速馳登り、執権武蔵守時氏御目見へ相済、鎌倉上番可仕候と被仰附、沼田安部之御願書被下、翌年御暇被下、御城より家中之面々途中迄御迎出、萬歳を謡けり、泰経男子成人、今年七歳、三峰山に登り、御供師左京、恩田舎人、根岸兵部、右三人登り山神を拝、其名を改め、沼田勘左衛門平之安泰ト号シ下向ス、文武両道達者、家中諸士敬ける、月日重り次第に父に勝り、国も治る御勢也、然処に鎌倉より廻文来り、今度頼嗣御逝去、御世継無之、後嵯峨院第一皇子宗尊親王鎌倉へ下り、天下之将軍と成、泰平之由申来り、依之早速馳走リ、執権相摸守平時頼御目見へ仕、鎌倉在番たり、鎌倉之親王五代に初、時頼におとない民懐、六拾余州無事、翌年泰経沼田へ帰国被仰附帰城ス、家中面々途中迄御迎城入、恐悦申上ル、然処泰経病気重り、安泰を取立候様に申則逝去、人々かなしみ限りなし、月日積り安泰父之跡を継、繁昌ノ其上ニ鎌倉に登り、継目申上、安堵之御教書被下御帰国、治事第一也と被仰附帰国、家中面々御迎萬歳謡ける、皆々武芸第一に致と被仰附、弓馬懸り行、稽古専也、猪鹿狩なぐさみたるべし、天下大平卜申は此節なり、安泰今に御てうあいなく、町小沢主計娘嫁入、何も宜敷申上、婚儀済、然処沼田町大小頼状上、御城水不足に付、町々難儀仕候、何卒上水御奉行被仰附被下候はゞ、行徳無水も可参処、水引落に付行届不申候段申上、依之塩野井平右衛門上水之役被仰附無滞可参候、足軽三人平井隼人急申上、上水境中山之賎人出馬合而弐百人計押込、在家に押取仕、何共難義仕候、御人数御借可被下申上ル、早速可遣と根岸大膳平井隼人両人手下三百人指遣シ、則峠に而弓引懸ケ、鏑をならし、打かけゝゝ、坂之麓へ追落し、石を飛せ、いきもつがせず追敗シける、跡をも不見して逃にけり、暫飯屋を拵、十日計見合セけり、其後は音もなし、何れ帰けり、安泰如此申上ル、境を押込所、早速打払事勢力すぐれたりとて、御ほうび被下候、去程安泰一子出生男子、御恰際無、然処文永拾壱年鎌倉より宗尊親王御遠行ニ付、早速鎌倉へ馳登、則惟康親王御代執椎相模守時宗へ御目見ヘ仕、依之沼田之事御尋之上可申上、鎌倉在勤被仰附安堵之御教書被下、翌三月帰国之御暇被下、御城御安泰、嫡子成人、今年七歳、三峰山に登、御供師左京、庄田左門、恩田合人、家臣氏神並拝、沼田上野之助、平之常泰と号、則下向、父御歓限なし、然所に須川之住人須川兵庫注進、上之山大道峠之城下に我妻郡之賊人日々に峠に追入、此方之民家をかすめ、里に出而狼藉仕候、御加勢可被下と申候、則三百人被遣、手勢其人数五百人夜を日についで急ける、此方麓ニ小屋を懸、弓鑓棒様々之道具を構出向責戦、賊人責立られ、或は疵請或は生捕終ニ博ス、跡方□なく追ちらし、又は可参之峠にをり火を焼き、凡十五日程詰居たり、沼田へ帰、右之段逸々申上候へば、御目見得被仰附、此度之出勢去儀何れも休足の御暇被下候、扨又常泰成人被遊、勇力当年拾五歳之春之頃、領地之山々猪狩可致也、雪沢山に有時節也、家中諸士に被仰附、三峰山は鎮守山なり、その外之山々狩可致と被仰附候、発知へ川端山勢子之人数を出、勢子大将は発知たるべし、日々に狩をこのみける、然処安泰老病を引請、養生不叶逝去ス、成孝院殿春王道英大居士、成孝院開禅也、家老家中寄、常泰をいさめける、父之養生不叶天命之究所也、則山陵へ納被仰となり、常泰月日おくり忌服過、家中大小之士、古軍之事申渡シ、領内之民之歩行なし、清道但しく鎌倉より廻文来り、其書に曰、惟康親王御遠行、御世継無之、深草之院第二之皇子久明親王御世継給、執権相模守貞時也、常泰早速鎌倉へ馳登、貞時へ御目見仕、常泰申上は、拙方代々之先祖相談納候所に、近年賊人徒原境領内をおびやかし、御地之ものかすめとり、雪国に而雪霜之間、四箇月程限り難義仕候段申上ル、尤に被思召、則御暇被下下向、家中之面々大小途中まで御迎に罷出拝祝ス、城入萬歳を謡ける、常泰恩田舎人娘婚儀調、城入御悦限なし、年来程有テ懐胎身弥大切、臨月を待所、若君御平産、御歓際なし、然処追欠金子市蔵と申もの注進、近郷東上州新田之方、並山家のものども根利家之棟峠と申所、其より在々所々かすめ取り、男子ヲかどわかしける、難義仕候御加勢被下追払、あんのんに仕度義願上、御老人数三百人差越、何れも長柄之鎌鑓弓矢長刀やう日についで案内させ、右之峠近に飯屋立待居たり、あんのごとく百人計人有共不知峠へ上りける所を、すはやと追懸られ、思寄らぬ責道其打ず打れず大勢ニ無勢、不叶賊共命ヲおしみ逃所ヲ、追打に弓矢を以討懸ヶ打ちらし、暫見合居たりけり、番所と所之者差置、皆沼田に帰り逐一ニ右之段言上仕リ、遠方別而太儀至極と御褒美被下、何れも在所に帰り、休足可仕と被仰出、扨又常泰一子成人、当年七歳、吉口を改、三峰山に登り、氏神を拝し、御供師兵部、和田之庄司、庄田右衛門、右三人登山致、並拝仕、沼田右近太夫平泰景卜改、和田大膳と申者根元縁伝也、和田常泰申やう、鎌倉におゐて祈願菩提寺卜申事有、此城下に両寺建立すべし、則新田大光院僧卜申趣呼寄、正覚寺卜号、新田、瀬良田、長楽寺ノ僧呼寄、三光院ト号ス、各各一ウ建立、然処に町田主計申上候、此頃上之原に夜夜光物出、往来成がたし、何卒御吟味被成下候はば難有存候、小沢大膳同道に而参候処、見る所に二ツ之塚有、堀くづし見れば、黄金之観音一体光りをはなつて出る、是は所之守護也、大切に致、其所に一ウヲ立、堂を立、則別当は堀口民部に被仰附ける、其頃鎌倉執権より廻文参り候、久明親王御遠行に付、守邦親王に御世を譲り、早々罷登可申、依之其時鎌倉之執権相模守高時に継目之御目見仕、則鎌倉在番可仕段被仰附、翌年春帰国之暇被下、沼田に帰ける、城入恐悦申上ル、然処嫡子右近之太夫当年拾七歳、何れ成其妻を見立可申段被仰附候、家中面々恩田舎人申上ル、平沢息女可然由、則平沢に被仰附候、難有御請申、吉日をゑらび婚儀済、其頃新田足利両家より内通折々也、鎌倉高時悪行日々に重り、時節見合一騎おこし可申段一身連判之廻文来り、弥相違無之趣申候、月日ヲ送リ軍ヲ張リ高時さらに其いろ不見、然共毎年鎌倉出仕はやめざりけり、右近之太夫男子出生、父歓際リ無ク家中弥恐悦、然処常泰病気に付、養生不叶死去、家中大小闇夜之燈きへたるごとく、弓馬之家に生城主国主は、只誠を以民をなで、士卒ヲ扶持する事第一之可之名君也、月日送り家老役人被召、郡中に触をなし、ほどこし宝をくばりけり、新田之内通もだしがたし、家中之若士武芸を磨ベし、弓馬別而磨ベし、強くありけん、然処右近之尉、父之継目可申上鎌倉に参上ス、高時ニ御目見仕、安堵之御教書被下、暫在番可致卜被仰附、翌年沼田エ帰国ス、家中之面々三日三夜萬歳謡ける、

正慶二、鎌倉にて守邦親王薨、御年三拾三、同年新田左中将源義貞高時ヲ亡ス、北條九代百五拾年にて亡、是より一乱起、日本国中刃ヲケツリ止事無、高氏打負西国へ落ける、義貞利軍加勢才束、依之新田より猶才束ス、義貞勝チほこり、こうとうの内侍を被下ける、高氏西国より押来り、義貞打まけ高氏天下をにぎる、然共国之庄官国主駈動止事なし、然処右近尉嫡子当年拾壱歳、三峰山に登り氏神拝、御供師民部、和田庄司、庄田右衛門、社人和田大膳、則神前並拝シ、沼田左衛門尉平義景と名乗ル、則御下向、扨又鎌倉にては後醍醐之天皇第弐之皇子大塔之宮尊雲二品親王治世三歳、直義がタメニ薨、同第三之王成良親王治世三年薨、是より鎌倉親王五代ニシテ滅ス、尊氏天下一等、六拾四州掌に入トイエドモ、三代義満にイタリ漸天下納ル、天下泰平卜成、同拾二年之内ナリ、去程に右近之尉泰貞、直義之使鎌倉に相談在番ス、鎌倉におゐて病死之段飛脚到来、左衛門之尉義景早速馳登り、父之遺蹟継目、鎌倉在番被仰附相詰ル、沼田は家老共計り相守、然処新田義貞之余類越前越後より三国を通り、沼田に流浪シ、爰かしこの民家をさわがし、其上新田館辺より沼田に押寄、若シ別心あらば於一戦可及段申越之、依之左衛門尉鎌倉在番、此段早々申渡し、差図次第早速帰国致、一戦ニ及候はゞ、加勢可付段被仰附、頓而沼田より急ぎ城意する、沼田にても今哉ゝゝと待駒引立ける、其上越後通之勢、新田より之勢前後より責懸る、左衛門尉申やう、免角無申訳、家中之士誰壱人先応一身可仕旨申、其上兎も角も時之シキニ可致、依之新田之陣屋へ使を立、一身可仕、庄田成馬に申付、沼須川向之陣屋へ罷流、大将脇屋義治へ申上、向後は鎌倉を打捨、御身方可仕申上、其義神妙也、則返礼指出可申段、大森之後何寺、細須田豊前等を引れ、新田之一族軍用催促所々触ける、左衛門尉沼田之城に誓居ス、然処家老面々打寄、君には御てうあいも無之、幸イ岡谷兵部が娘美女に御座候被召寄可然と申上ル、尤に思召、兵部へ此段申聞せける、難有御請申、則吉日を改、婚義済、扨又都に者建武二年より応永元年まで四拾年之間、京都吉野年号両朝二立、吉野皇居も五拾弐年に而滅ス、一天帝王卜極ける、然処に沼田に而左衛門尉出世せんとすれば、新田より押寄、又新田へ組せんとスレバ鎌倉も無心元、如何せんと家中一等評議、先暫見合テ世中を御讒勘可遊段一統に申上、尤に思召なり、月日重り左衛門尉男子を設御歓際なし、然処に鎌倉より廻文、両上杉管領相極、和田之余類悉打果、天下一等納り、早々馳登り異義無之旨申上、則鎌倉在番可致段両上杉より被仰附、浦浦嶋々迄足利殿一類意恨ヲ懐者なし、義景も鎌倉に相詰、沼田は家老取計、然処義景之男子当年拾五歳、父は鎌倉に御座候へ共、家老打寄、御父は当主たり共、御名を改則三峰山へ登り可然シ、御供師左京、真庭大学、後閑舎人、右三人登山せり、社人和田大膳祓幣取並拝シ、沼田民部太夫平之家景卜名乗、則下向之威勢ゆゆしける、扨又鎌倉には両管領位をあらそひ、意恨如山、表は睦敷候得共、数年御迎拝烈、嫡子成人御覧、御悦は際なし、家老之面々ヘ国之□法御聞被遊、少も違乱無之段吉慶たり、然処ニ大胡豊前、樽村、細村、南雲村ヲ掠押取、夫より長井川□村森下まで押領せんとす、依之大森之後何寺より飛脚来り、右之段加勢可被下卜急に乞候、則物頭一組、大小之士惣人数三百人直に早馬を飛せける、大森も大勢一手に成て相待ける、豊前も是にたまりかね、永井坂へ引にけり、暫窺ける、坂下へ押詰、山手にかゝり、遠見を置、ぶぜんも今はせんなしとて引にけり、自分も暫日を重て大森へ引取、沼田勢も直に帰けり、大森方真下之一族に返礼に出陣之面々ヘ礼物持参せり、扨又家景当年拾八歳、御妻女なく、依之西山兵庫娘可然と申上、尤に被思召、右之段兵庫へ被仰附、難有御請申、吉日を撰婚儀済、扨又大森壱等平日片品河通境論日々ニ止事なく、此方よりも手痛く責防、重而手を不入、扨又義景老病に而医薬不叶逝死ス、長男家景遺譲、正覚寺山後ニ納葬慎成月日送忌明キ、家中之面々継目之御祝義申上、今度鎌倉へ出立之御供立被仰附、吉日改出仕有、急鎌倉参着ス、両管領へ御目見済、則父之遺譲無相違安堵之御教書被下、在番被仰附、翌年帰国御暇、沼田へ帰、家中面々御祝義申上、此節京都にては高氏、西国にては毛利弘元、赤松一等、駿河義元、尾張、小田原北條、甲斐信玄、越後之景虎、在国出立なし、依之両上杉可責領関八州思召之出立也、其味方数を不知、扨又家景男子出生御歓際なし、成人を待にけり、鎌倉両上杉相論互に止事無、其上小田原北條に打破ラれ、関東数年之戦、管領長尾景虎壱人にて意ヲ振、其上一類共在所越後日々ニ押領ス、箕輪之城主長尾信濃、白井之城主長尾上野之助、平井之城主長尾武蔵守、然ニ長尾信濃守沼田へ入魂有之互に睦敷、則沼田、景虎旗下と成けり、沼田家景嫡子当年拾五歳、氏神三峰山に登り家名を改、御供師左京、恩田舎人、和田庄司、右三人社人和田大膳神前ヲ拝し、沼田上野之助平景貞卜名乗下向、家中一統に恐悦ス、然処に箕輪之城主長尾信濃守より飛脚来ル、其文に曰、我等今貴殿と入魂之上は、長く御身結び可申候、依之治女貴殿娘に可遣如何と申越候、家景歓けり、急ぎ家老壱人可遣、則恩田舎人に申附、早速罷越大悦と申、然ば婚礼は当十一月差越可申と相究メ、舎人御暇乞罷帰る、家景に右之段申上、御歓際無し、普請申附、御望之通り程無出来せり、十一月初句に至り日限究こし、迎に大勢指越、箕輪より沼田迄櫛之はを引、沼田着城内へ入にけり、家中面々上下御歓申上ル、景貞御夫婦睦鋪、父母之御悦不浅聞へける、程過上野之助景貞、箕輪之城に着ス、信濃守出向御礼済、一間に志やうじ、景貞立廻りを見て御歓不浅、貞方へもけんざん、日本一之士と申ける、貞方申様、当所鎮守は榛名大権現御座を立くわんじやう致旨申候、景貞尤に思召、別当に申附、沼田へ移ス、当所八幡関東初之八幡、是も勘請可申卜、板鼻之八幡是也、戸鹿野村に建立、榛名権現は根岸村に建立、是より御領内惣鎮守也とて、人々敬参詣ス、其後根岸村を榛名村と申伝也、右両社城主より御建立なり、然処に鎌倉管領小田原北條威勢強ク鎌倉を押破、管領憲政を押払、北條之天下之如也、依之憲政は武蔵平井へ欠落、爰に暫住居ス、然処甲斐信玄ニ責られ、爰にも不叶、越後へ逃廻、景虎をたのみ、管領職をゆずり隠居ス、依之景虎位勢強ク、其頃白井長尾意元入道、色々知謀を通、入道申事も不用シテ終に平井落城する、憲政爰かしこにて打れ、或は三国通りも有、或は沼田通りもあり、沼田之内下沼田と申処に百人計り待休にて打れ、湯原通り上牧小松卜申処に而も打れ、或は出水に流れ、残は越後に行とて道にて打れける、長尾信濃守、信玄に多度責られ、意玄入道も打れ、関東大方北條になりけり、沼田は景虎加勢にそ、信州川中嶋年々数度之戦止事無、小田原北條越後領ヘ押寄、前橋、平井、箕輪、白井、沼田は越後領也、景虎と度々打出、又信州へ信玄打出両度戦、不意を破る、然共年若成大将にて、其上管領印を持、京都より義輝教文被下、輝虎卜号、北條次男養子に致シ志づか成、然所輝虎三拾九歳に而病死、此様子見て信玄之諸士勝頼に所、直に我妻郡不残責取、横谷、西窪、湯本、鎌原四人打シタガイ、是を案内人にシテ沼田ヲ打取り可申、案内致せと申、真田弾正忠手勢三千引取、我妻より中山通り責落、夫より沼田に急ける、程無沼田ヘ押寄、時之声ヲ上にけり、思もよらぬ事なれば、あはてふためきまよいける、其勢雲霞之ごとく也、家老面々打寄、兎角城を明降参いたすに志くは無ト声をふるゑて申ける、依之景貞妻をつれ住シ城を忍び出、貝野せ通りを落行ける、家老共真田に降参仕リ城を渡ける、矢沢但馬に騎馬相添、諸士を籠置、城主景貞出奔、尋出候はゞ先地を無相違可被下候ト相触ける、景貞は妻子引連、夜に紛新田之方へ落行、然処金子美濃卜申もの悪逆無道者尋出し、先地に成申さんと、則跡を志たい、景貞に尋逢、真田軍勢皆々引帰り候、先君御壱人は忍太御帰被成と申候、先久屋通り夫より町田観音堂へ廻り、是より御志やうぞく御仕替、星□論より御入被成と申、是に御家来皆々打寄、御迎と申上る、左様卜思召、則本輪へ廻り門に入らんとする所、同待懸シ士共首打落、其首大将へ美濃差上、則御ほうび被下、其上金子美濃儀は数代之主君ヲ打事、大逆無道之悪人也、依之我妻川原之穽へ入、諸人之見せしめたるべし、其後我卜死ス、海野能登、矢沢但馬、交代ニ城代ス、然処小田原北條、関八州不残納、片地沼田を残置事、依之軍勢押寄手もなく責落、城代壱人たまりかね城を渡しける、其後猪俣能登守御せんぎきびしく、真田ふせく、北條も末に成、秀吉公に責落され、扨又猪俣能登守卜出奔ス、関東権現公御領卜成、関ケ原陣之時働に付、真田安房守昌幸に天正拾八年入部、同伊豆守信幸、同元和八年大内記信政、同河内守信吉、同伊賀守信行、同弾正忠信成、六世に而天和二歳酉之十一月領地没収、おしむかな沼田之城主始真田安房守貞方、本多中務大輔平八郎忠房之娘、其上権現公御孫也、昌幸沼田に暫居城ス、依之貞方御願に付、天守迄立る者也、大蓮院殿かち町正覚寺二御霊供有之、奥方沼田領分に鎮守、信州之諏訪大明神勧請シ、村毎に立ル、其上武尊大明神、日本惣鎮守也、是又可相立被仰附、真田安房守沼田物領之時節建立致候也、天正十八庚寅年也、真田伊賀守迄六世にて没収ス、其濫觴ヲ尋に、伊賀守元妾腹に而、沼田領内小川五千石にて部屋住之人、成人後何卒信濃守拾萬石心懸、常に其心のみ、然処に河内守に信州拾萬石家督渡、沼田三萬石は伊賀守へ渡る、心外に請取、城主卜成、夫より松代と観音へ不通、是より同高に可致卜領分三萬石新検を入、拾三萬三千石に打出シ、依之領分百性に過役申附、難儀日々に増シ、其上浪人ヲ高知行にて召抱、年々として不勝手に成、依之江戸両国橋かけ替に付、何方之地頭成共望之方へ手金として三千両成と之御触に付、伊賀守信行、永城代之面々諸役人被召、近年不勝手に付、我領分に此通り之橋木有之哉、若年有之候はゞ三千両請取勤仕度、弁に当用にも成り、其上材木出方は尋役百性に申付如何候と被仰出、諸役人御尤に被存候、御注文御請書差上、来年八月上旬に両国橋場へ着可為仕卜申上候、家老並山奉行普請奉行兼帯役なり、連判証文可差出之旨御下書被下、家老無之、根岸宮内ハ川田押込置、仮り城主舎人家老判、山奉行宮下七太夫、麻田権兵衛右三人連判証文差上、則三千両之金請取、首尾よしと歓夫より藤原山、発知村、川幡村、佐山村、手別材木御注文之通見立不残根伐致、出シ方は領分之百性役に申付候処に、未申酉三箇年大ききん、百性夫食無之、材木山出し成不申、年中懸りても里へも不出、数年按立られ候事、其上八月中旬之証文暮に成り而も城下へも不見ヘ、延引之返事も不申体、其上ニ大将家綱公ニ度々之乗打立林様之時も無之、不体数度に至り、口数箇條御書申分ケ不立、伊賀守天奏之召青縄かけ、宇津之宮奥平能太夫殿へ御願、御家門之面々不残所々へ御預ケ、沼田之城破却之仰附、依之御城請取、御上使には安藤対馬守、新庄因幡守、其外大勢無異儀渡シ、夫より天守引たおし、堀埋土居くずし、一城官広原卜成、御代官竹村惣左衛門、熊沢武兵衛、新町士屋鋪弐軒残し置陣屋とす、然る処に借置し橋木材木屋長嶋屋長兵衛へ被仰附、半年計りに江戸へ着ス、百性願に附、則貞享元年より新検被仰附、酒井雅楽守様へ被仰附、五百三千石余に相定者也、天和元辛酉より元禄拾五壬午迄弐拾壱年御代官所也、

 

 

 【続々群書類従「例言」より】

一、沼田記は、上州沼田の城主平経信、源頼朝に従つて戦功を樹てしより以来、経信泰経常泰泰景義景家景の事蹟、及び景貞に至り、武田勝頼の為に滅されたる顛末を記す、文辞拙劣、誤脱亦尠からずと雖も、沼田氏の事蹟を詳記せる唯一の史料たり、本書は、黒川氏所蔵本を以て底本とせり、