加沢記 巻之二⑫ 真田昌幸公信州上田上州吾妻領御仕置之事

加沢記 真田昌幸公信州上田上州吾妻領御仕置之事
加沢記 真田昌幸公信州上田上州吾妻領御仕置之事

主な登場人物

真田昌幸

 上からは信頼され、下からも慕われるナイスな中間管理職。

 吾妻の守りを鉄壁にした。

海野兄弟

 長門守幸光と能登守輝幸の兄弟。

 白井長尾勢を相手に柏原城の争奪戦を繰り広げる。

内容

 今回の章は前章で家督を継いだ真田昌幸が信州の上田と上州の吾妻でどんな人員配置をしたか…っていう話がメインですが、人名列挙の中にもちょくちょくとエピソードを入れてくるあたり加沢平次左衛門のクリエイター魂を感じますね~。

 

 真田安房守昌幸は兄である信綱信貞(※)の家督に加え、養子に行っていた甲州武藤家の領地も受け継ぎ、兵力300騎の大将として上田原の城に住んでいました。

(※信貞?…昌輝のことかねえ?…それとも信綱信貞=信綱?)

 

 昌幸は智謀の深い大将だったので、一門の人々は言うまでもなく、近隣の城主とも深い絆で結ばれており、家臣の面々はみんな情深いヤツらで、分国の民にも…(このへん書き写せなかったみたいだけど、まあ「慕われていました」的な意味でしょう。)

 

 昌幸には子が多くいました。

 

 嫡子の源三郎は7歳の時に信玄から「信」の字をもらい信幸といいました。

 

 信幸の姉は甲州に人質に出されました――この姉ちゃんはいわゆる“村松殿”ですね。『加沢記』だとこの後で割と過酷な目に遭います――。

 

 二男の藤蔵は後に左衛門佐信為と号しました。――左衛門佐は信繁(幸村)のことですが藤蔵だの信為だのは珍しい記載ですね――。

 

 三男は源五郎といいました。――三男の源五郎っつーのは昌親のこと?…もう一人ケンカして死んだひとがいるみたいだけどどっちが三男でどっちが四男だかよくわからん…――。

 

 昌幸の武勇は万人を超越しており、数度の武略により高名だったので、勝頼からも無二の臣として重用されていました。

 

 その頃関東では、北条氏政・氏直や、越後の謙信入道といった勢力と、武田との間での争いが続いていました…。

 上州の沼田、前橋、?田表(川田表かな)に対する戦略については、昌幸が任されていました…。

 

 岩櫃の城は海野長門守幸光と能登守輝幸の兄弟が守護していましたが…

 

幸光「…そういえば沼田の件だけどよォ~…アソコって今、城主がいなくて城代を置いてるんだってな~…」

 

輝幸「マジかぁ~!?…そりゃあチャンスだな!……この機会に沼田をブン取って昌幸さまへの忠信を示しておくのもイイかもな~!!」(原文:沼田を責取忠信せん)

 

…と海野兄弟は岩下鳥頭の明神へ沼田奪取を請願し宝前に鰐口を奉納したということです…。

 鳥頭神社は「神代杉」で有名な所ですね。

…で、この後またナゾの空白がありますね~…。続く文脈から推定するに沼田衆との小競り合いについての記述でも書かれる予定だったか…。

 

(数行不明ですが)こうして長尾左衛門入道も…

 

白井長尾「近ごろは信玄のヤロウに押領されてムカついてたトコだぜ…ヤツも逝ったみてえだし、白井は謙信に付くぜ~」

 

…と、吾妻表へ出張(デバ)り、海野との戦いが止む事はありませんでした…。

 

白井長尾「海野兄弟がナンボのモンじゃあ~!…まずはウチともゆかりのある柏原の要害をブン取ってやるぜ~!」

 

 ここは植栗河内、湯本左京進、荒牧宮内少輔が守っていましたが…ついに長尾の手に落ちます…。

 

白井長尾「よぉーッし!…じゃあココは吉里を大将にして野村、飯塚、福嶋たちに守らせておくぜ~!」

 

 対する海野兄弟は…

 

幸光「…チッ…このままじゃうまくねーな……こうなったら不意打ちして奪い返すしかねえッ!」(原文:不易……不意に是を攻落ん)

 

………

 

幸光「おい…富沢に上原ッ!……ウチには“長吏八右衛門”ていう名高い忍びの達人がいるだろう?……ヤツを使って柏原の要害を取り戻せッ!」

 

 指示を受けた富沢但馬と上原は長吏八右衛門を柏原に送り込みます…!

 八右衛門はたやすく要害に忍び入り、城に火を放ちました…!

 これに便乗して攻め込んだ植栗は、再び柏原の要害を取り戻します…!

 

幸光「よしッ!…みんな良くやったぜ!」

 

輝幸「めでてーなアニキ~!…そういえばこんな時さ~、オレらの元大将の齋藤入道は(裏切っちゃったけどw)木戸口に土器置いて酒盛りしてたよな~!…オレらも真似すべーじゃね!」

 

幸光「👍

 

 こうして柏原奪還のお祝いをした海野兄弟は、八右衛門に恩賞として手作場と吾妻一郡の長吏頭の地位を与えました…。

 

 その頃、箕輪の城は内藤修理と丹後の父子が守っていたので、真田昌幸もそちらの方面については安心していました…。

 市城口岩井辺の要害は富沢伊予、塩谷掃部、割田下総、佐藤将監入道が守っていましたが、ココにはさらに富沢豊前、唐沢玄蕃、山田与惣兵衛、割田新兵衛を配置しました…。

「大戸口は大戸真楽齋が手児丸の城にいるから問題ねーかな…」と思われていましたが、さらに加勢として一場太郎左衛門を配置し、浦野中務は在所である三嶋厚田に配置しました…。

 大戸城蜷川嶽の要害には蜷川入道、同庄左衛門、神保佐右衛門を、武山の城には池田佐渡守、桑原大蔵、町田、鹿野を配置し、昌幸自身は岩櫃に在城しました…。

 

 

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原文

真田安房守昌幸公は御舎兄信綱、信貞の御家督甲州武藤の御領地共に給ふて御勢三百騎の大将にて上田原の城に住給ふ、智謀の深大将也ければ御一門の人々は申に不及近隣の城主に御契深く、家臣の面々御情深くして分国の供民□□□□□□□□□□御子数多持給ふ、嫡子源三郎殿七歳の御時信玄公より信の字を被下信幸と申ける、御姉君は甲州人質被遣ける、二男藤蔵、後左衛門佐信為と号、三男源五郎殿と申ける、昌幸武勇万人に越給ふ、数度の武略高名有りければ、勝頼公無二の臣にぞ被思召ける、猶も其頃関東は北条氏政、氏直、越後の謙信入道武田と争半成ければ上州沼田、前橋、田表は昌幸蒙仰御謀の国成ければ岩櫃の城には海野長門守幸光、同能登守輝幸守護して有りけるが、沼田の儀城主無して城代也ければ海野兄弟も沼田を責取忠信せんと岩下鳥頭の明神へ請願有て宝前に鰐口を御奉と云々。

かくて長尾左衛門入道も近年信玄に領地を被押領けるに依て信玄公御逝去の節より謙信より白井へも告来、夫より吾妻表へも度々出張して海野と戦止事無し、かゝりける処に柏原の用害には植栗河内、湯本左京進、荒牧宮内少輔在番して有けるが、長尾方より攻取て吉里を大将にて野村、飯塚、福嶋等を籠置ける、幸光不易思不意に是を攻落んとして長吏八右衛門と云し名誉の忍の上手也ければ富沢但馬、上原、渡り相計て下知しければ輙く忍入彼城を放火して植栗出馬し攻捕ければ不斜悦給て、齋藤入道の任先例木戸口に土器を居させ酒を盛賜り為恩賞手作場並吾妻一郡の長吏頭に被申付けると也、其頃箕輪の城には内藤修理同丹後父子相守給ければ此筋心易かりける、市城口岩井辺の要害には富沢伊予、塩谷掃部、割田下総、佐藤将監入道籠られける、富沢豊前、唐沢玄蕃、山田与惣兵衛、割田新兵衛を籠置る、大戸口は大戸真楽齋手児丸の城に住ける依て子細なし、然れども加勢として一場太郎左衛門、浦野中務は在所三嶋厚田に被置ける、大戸城蜷川嶽の用害には蜷川入道、同庄左衛門、神保佐右衛門被置ける、武山の城には池田佐渡守、桑原大蔵、町田、鹿野を被寵置其身は岩櫃に在城也ける。