加沢記 巻之二⑩ 沼田大乱之事

加沢記 沼田大乱之事
加沢記 沼田大乱之事

主な登場人物

武田信玄

 甲州武田大膳太夫源晴信法性院大僧正機山信玄居士。

上杉謙信

 沼田方面の守りを固めた後、昔の思い出にふける…。

 思い出話だから「ホンマか?」って内容が多い。

小川可遊齋

 謙信の回想で登場。

 『加沢記』だと上方牢人の赤松孫五郎という設定。

沼田万鬼齋顕泰

 謙信の回想で登場。

 「あれ?…なんでアンタ生きてんの?」と思ったら謙信の思い出話だった。

和田のたいほう

 謙信の回想で登場。

 和田掃部の娘。

 生涯不犯伝説をぶっ壊す。

内容

 さて、今度の章は「沼田大乱」ですね~。こないだは「沼田滅亡」だったのに…沼田はいつも大変ですね~。

 ちなみにこないだの「滅亡」は沼田氏の話ですが、今回の「大乱」は地域の話です。

 ところで皆さんはマンガとかの回想シーンは好きでしょうか?…私の大好きな『ジョジョの奇妙な冒険』(特に5部以降)とか、最近では『鬼滅の刃』などでも頻繁に使われていましたね。登場人物に感情移入するうえで非常に有効な表現手法だと思いますが……『加沢記』 はこの章でコレをやりやがったんですね~ッ!

 マンガみたいに分かりやすく「アバッキオが警官の頃の話だよ~」みたいな回想シーンへの導入があればまだいいのですが…『加沢記』がそんな気をつかってくれるハズもなく…急に死んだハズの人物が出てきて「!?」となったりしますが…まあガマンして読みましょう。

 

 天正元(1573)年4月12日、甲州武田大膳太夫源晴信法性院大僧正機山信玄居士が卒去したとの情報が漏れ聞こえ、国中がソワソワしだしました…。

 

謙信「…信玄が死んだか……沼田のほうは荒れるだろうな~…」原文:沼田無覚束)

 

 謙信は同年5月、藤田能登守信吉に舎弟の彦介、北条(きたじょう)右近を付けて沼田に派遣しました。

 なお、前から沼田に派遣されていた川田伯州は病気(たぶん心の)になってしまい、何を思ったのか浪人して新田郡に蟄居してしまいました…。

 

謙信「…うーん…藤田を派遣しても、まだ心配だな~…沼田のヤツらはクセが強いのか、ウチの家臣を城代として派遣しても、みんなメンタルやられちゃうんだよな~…そういうイミじゃあ万鬼齋とか弥七郎とかって優秀だったんだなー…ココは白井城の長尾にも頼んでおくか…」(原文:猶以境目無心許)

 

 その時、謙信が飛脚に持たせた手紙が…

―――――

態以飛脚申遣候、少大事之用所候間談合申所候赤見歟牧歟両人に壱人差越可申××可×事候間無心許儀には無之候、扨亦信玄果候儀必然候、其故は徳川家康五月上旬にも駿州久能、根小屋始駿府在々打散被引退候を重て乱入之由候、信長も其支度之由×××之内使者当方へ下由之候間定而当秋の調儀可為談合候、其方本意も漸近付候、可心安候、城中江追日存分之侭二候、是亦可心安候、万々使之時分可申候、謹言

  六月廿六日

  謙信

  長尾左衛門どの

―――――

内容…

「白井の~…緊急なんで飛脚に持たした手紙でカンベンな。…わりーンだけどさ~…オメーん家の赤見か牧にコッチのほう手伝ってほしいんだよね。ワリーようにはしねぇから頼むわ…。ところで『信玄が逝った』っつーウワサだけど…アレどうやらマジみてーだな。

…つーのが家康のヤツも5月上旬に駿州の久能や根小屋を始めとして駿府のアチコチに乱入したって話だしよぉ~…信長のヤツもウチに使者を送ってよこしたけど(このへんよくわからない)まあ秋にはまた動きがあるぜ~!?

…つーワケでオメーが本意(武田に奪われた領地奪還)を遂げるのも、もうすぐだから安心しとけやな。そーゆーコトで頼んだで。」

 

 この手紙を受け取った長尾左衛門は…

 

白井長尾「…マジで!?…信玄のヤツ死んだんか~!…あの野郎には永禄の頃からウチの領地を奪られっぱなしだったからな~…ココは越後に協力して領地奪還するチャンスだ…!」(原文:謙信公(たぶん「信玄」の間違い)え永禄の頃より領地の内被押領ければ、不斜悦び)

 

…と、さっそく赤見山城守を春日山へ送りました。

 

(原文は“謙信”に横領されたって書いてあったけど写本の原本には「ここは“信玄”じゃね?」って注意書きがされてたそうです。浄書した増田頼興さんが書いたのかな?)

 

 このことは沼田にいる藤田たちへも一井齋入道(長尾)を通して連絡されました。

 これにより中山安芸守や尻高左馬介と次郎の父子も、用心して厳しく居城の守りを固めました…。

 

 そして、吾妻郡宮野の郷にあった猿ケ京の城は関東でも重要な拠点だったので、謙信は一族の栗林肥前守に加え、尻高左馬介を添えてココを守らせました…。

 

謙信「…宮野は栗林と尻高に任せておけばイイだろ……宮野――猿ヶ京――か……そう言えばこんなコトがあったな…」

 

――宮野の郷猿ケ京の城――

…ここは謙信が初めて関東に出張った際に構えた要害でした…。

 

(猿ケ京って昔は吾妻郡だったのか……そしてココから長い回想シーンが始まります。回想内回想みたいなのもあるので字だけで解読するのは非常にややこしいです…。

 ホント『加沢記』マンガにしてほしいわぁ…。)

 

――💭 💭 💭――

 

 それは永禄3(1560)年、庚申の年3月の事でした…。

 謙信はこの要害に一泊したのですが……

 

謙信「直江~ッ!…直江山城はいるか~ッ!?」

 

(ココの直江山城守は直江兼続のコトではない?――永禄3年て直江兼続が生まれた年ですからね――そもそも『加沢記』が年代を間違えてる可能性もありますが…)

 

直江「…どうされました?」

 

謙信「…直江~…今すごくコワイ夢を見たんだよ~…」

 

………

 

直江「(…イイ歳こいたオッサンがそんなコトで呼ぶんじゃねーよ…)…はぁ…一体どんな夢を…?」

 

謙信「…オレは夢の中でさ~…なんかデカイ屋敷に呼ばれて黙って座ってたんだよ~…

…そしたら『七五三の美膳』が出されてきてさ~……オレは『おお!…これはウマそうだなぁ!』ってこの珍しい食事と向き合ってたんだけどさ~…

…そしたら急に汁が“カタカタ…”(※)って震えだして『!?』って思ってアタフタしてるウチに、何もしてねーのにオレの歯が欠けたんだよッ!…

…『ゲェェーッ!?』って思って手に吐き出したら、歯が八枚も抜け落ちちまったんだよォ~ッ!…それで目が覚めたんだけどさ…」(原文:自大キ成殿中に出て黙然として座しけるに七五三の美膳を以我をもてなすに歓しく思て珍膳に向ければ汁片々有、兎角しける処に口中何とも無して歯欠たり、怪敷思て手の内に吐出て見、之に八枚欠落手の内に持たると見て夢は覚たり)

 

(※ 萩原進氏の解説によるとここは「汁片々有」じゃなくて「箸が片方有」的なことが書かれるハズではなかったのかということです。それがこの後の「かたっぱし」に通じるワケですね。「カタカタ…」って訳はたぶんヨソでいうと笑われるかもです)

 

 これを聞いた直江山城は…

 

直江「(しょうがねーなあ~…適当な分析してこのオッサンを喜ばせておくか~)…謙信さま!…それってメチャクチャ縁起のイイ夢ですよ…!」(原文:扨も目出度御夢相哉)

 

謙信「…何だって?」

 

直江「謙信さま…まず“さかずき”を用意していただけますかね?」(原文:まづ御盃を被出べし)

 

謙信「お?…おう…とりあえずコレでいいか?」

 

…と、謙信は蓬莱飾りの土器を用意しました。

 

直江「(……『とりあえず…』で出てくるのがコレ?…まあイイけど)…いいですか~?…謙信さまは……今回始めて関東に出張(デバ)って来て早々…御膳の端(※)が「カタカタ…」って震えて…その上に歯が8枚欠けて手の中に落ちた……っていう夢を見たワケでしょう?」(原文:今度始関東に御出張の御膳にかたはし有り、其上御歯八枚かけて御手の中に持給ふ事)

 

(※「汁片々有」をそのまま活かすために「箸」を「端」にしてアレンジしてみました。)

 

謙信「おう…だから何だってンだよ?(イライラ)」

 

直江「(ニヤリ)…コレは謙信さまが関『8』州を『カタッ端』から『手に入れる』っていう兆候ですよ~!(ドヤァァア…)」(原文:関八州をかたはし御手入との御夢想也)

 

――!?――

 

景虎(謙信)始め伺候の人々「…おお~ッ!!(喜)」

 

…と、一同でお祝いをしたということです…。

 

謙信「…いやぁ直江の夢判断のおかげで安心したぜ~……そういえば今年は“庚申(かのえさる)”の年だなあ…しかも今日は“庚申”の日だしよ……おッ!…そういやオレも申(さる)の歳の生まれだよ!」(原文:今年庚申の年今日亦庚申の日也、我も申の歳生也)

 

一同「(…えっ!?……アンタたしか寅年生まれじゃ?…)」

 

謙信「…こんだけメデタイ偶然が重なったコトだしよォ~……この郷の呼び方を変えべーじゃねーかよオイ…」(原文:旁以宜門出祝の郷なればとて、其名を改ん)

 

…というワケで、この場所は「宮野」あらため「申ヶ京(さるがきょう)」と呼ばれるようになりました…。

 

謙信「そういやあココって有名な『沼田三十三ヶ所』の順礼札所の観音さまが居るんだよな……出発前にお参りしてこーぜ…」(原文:音に聞ゆる沼田三十三ヶ所之順礼札所観音此所にも有と聞、門出に起請せん)

 

…と参詣したところ…

 

謙信「お~!…これはマジで立派な御堂だぜ…ん?…黒染の板に朱漆でなんか書いてあるな…」

 

………

 

謙信「これは…御詠歌か…」

 

 詣で来て 爰は宮野の 大場山

  二世あん楽と ちかひ給へや

 

謙信「…ん?……まだ何か書いてあるぞ…これは…この札を奉納した人の名前か…?」

 

 大永二年三月十八日

  久屋法珍齋

  発知道康齋

  小川岡林齋

 

(大永2年は1522年)

 

謙信「…およそ関東ってよぉ~…大乱のせいで神仏を敬うヤツなんていねえ…と、思ってたけどよぉ~……こんな山ン中でも殊勝な心掛けの人っているもんだな~……この人たちってどんなヤツらの先祖かねぇ?」(原文:凡関東は大乱にて神仏敬ふ人も無様に聞ゆるに此山中にさへ角殊勝成者如何成者の先祖やらん)

 

部下「(…知るかよンなモン…)…ココに住む老人に聞いてみましょう…」

 

………

 

老人「久屋法珍齋っつーのは、沼田の先方、久屋にいる齋藤三河太郎どの祖父にあたる人だいね。

…発知道康は発知刑部太輔景行さまのことさね。

…そんで3人目の小川岡林齋さまの話がちょっと長くなるんだけどね……

 小川岡林齋は沼田家の一族で『小川河内守秀康』って人の事なんだけど……

…そのせがれさんで『彦四郎』って人が、火事に遭った時に酢作りの場所を通って逃げたんだけどさぁ……悪いコトにそこにあった酢のビンにハマって亡くなっちまったんだいね~…」(原文:久屋法珍齋と申は沼田先方久屋の齋藤三河太郎殿の祖父、発知道康は発知刑部太輔景行、小川岡林齋と申候は沼田殿の御一族小川河内守秀康と申人の事なりけるが、実子彦四郎出火の難に逢し時酢を作置ける辺を通しに何の報か彼瓶の内に飛入て忽に死けり)

 

謙信「へえ~…」

 

老人「…そんなワケで家を継ぐ子がいなくなって…彦四郎さんの母と妻とを家来の人たちが面倒みてやって、なんとか領知を保ってたんだけど……まあ跡目がないんじゃねぇ?」(原文:家を可継子無して母と妻とを家人共養育して領知を被持けれども今に名跡はなし)

 

謙信「うんうん…」

 

老人「…そんで近頃は小川家の親戚スジの北能登守と南将監てぇ2人が大将みてえな感じだったんだけど……

…そんな状態の小川城に上方牢人の“赤松孫五郎”ってヤツが来たんだけどさ~……コイツがまた文武ともにバッチリで、何をやっても上手いコトこなすんだよね~……」(原文:近迄は小川が門葉北能登守南将監とて両人大将の様に見えけるが、中頃上方牢人に赤松孫五郎と云者来けるが、此者文武に達し毎物に宜ければ)

 

謙信「ほうほう…」

 

老人「そのうちに城内で会議しても赤松の意見しか通らないような有様になってさ~…

…ンなワケで、周りの人間も、自然とこの“赤松”を大将みたいにもてはやすようになってね~……ああアイツ(赤松)、今は入道して“小川可遊齋”って名乗ってるかな……ほら、こないだアンタ(謙信)にあいさつした小川城の大将のコトだよ…」(原文:評定の度ごとに孫五郎が異見に不得勝利と云事なければ、自ら大将の様にもてなし今は入道して小川可遊齋と名乗、去る頃御礼申上たる小川が居城の大将也)

 

謙信「…あーハイハイ…思い出した!…アイツね!!…うんうん!……ところであの“可遊齋”ってヤツ上方の侍なんだな~…京のほうの事を聞くにはちょうどいい機会だぜ…」(原文:京方の事御尋有ん為には専ら宜し吉事也)

 

 こうして可遊齋に対面した謙信は…

 

謙信「へぇ~、オマエ…赤松(播州の名門)の出なんだ~(ホンマか?)…もうさ、オマエが小川家を継いじゃえば?…褒美も付けてやるからさ、オレの為に小川城を守ってくれよ…な?」(原文:赤松殿の累葉たるべし、最小川の名跡)

 

可遊齋「(…フッ…これで謙信のお墨付きを得たぜ…これでオレも沼田家の一員だな…ククク…)」

 

 その日の午の刻斗(お昼頃)、猿ヶ京を出発した謙信は小川勢、名胡桃勢を案内役として、利根川を越え、あちこちに火を放ちながら沼田へと侵攻を開始しました…。

 

…謙信の侵攻を受け、沼田の大将である万鬼齋(※)は倉内に籠城していました…。

(※“あれ?…なんで万鬼齋が生きてんの?”と思うかもしれませんが、この辺は謙信の回想シーンですので…)

 

謙信「これが倉内の城か~!…噂どおり無双の要害だぜ~…」

 

…と15,000人の軍勢(ホンマか?)で稲麻竹葦のごとく取り巻いて攻めましたが…

 

謙信「…ダメだこりゃ…ラチあかねーわ…他んトコから攻めべー…」

 

…と、鎌倉坂(池田を通って川場)を登り、

 

謙信「おっし…青竜山(吉祥寺)に火ィ放ってやるぜ!」

 

…と堂に火を掛けましたが、不思議なことに全然燃えませんでした…。

 

謙信「おい、ここの本尊はどんな仏だ?」(原文:本尊は如何成仏にて有けるぞ)

 

吉祥寺の僧「…ひッ((((;゚Д))))…しゃ、釈迦如来でございます…」(原文:釈迦如来にてぞ御座)

 

謙信「そうか…じゃあ本尊を庭に引きずり出してから火ィ付けろ!」(原文:火を附よ)

 

…すると今度は猛火が天に上り、一瞬でお堂は燃え尽きてしまいました…。(ひでえ…)…これは釈迦如来さまが炎からお堂を守っていたということでしょうか?

 

吉祥寺の僧「…あ~あ…なんてヒデェことを…😭(原文:痛哉)

 

………

 

吉祥寺の僧「…“青竜山吉祥寺”ってのはよ~…康永2(1343)年に鎌倉五山のひとつである巨福山建長寺から開山に勅諡まで賜った仏種恵齋禅師がさぁ~…この地に来て草創したところなんだよォ~!!」(原文:此寺と申は康永二年に鎌倉五山巨録山建長寺より開山勅諡仏種恵齋禅師此地見立給ひ草創の地也)

 

………

 

吉祥寺の僧「…中頃にはこの庄の守護だった大友刑部太輔殿が帰依した禅寺でさ~……さらにその後、勅謚広円明鑑禅師が入唐し、延文(1356~61)年中に帰朝して以来、この国でも無双の霊地だったんだぜ~…!」(原文:中頃当庄の守護に御座大友刑部太輔殿帰依し給し禅寺也、後住勅謚広円明鑑禅師入唐し給て延文年中帰朝し給しより以来当国無双の霊地也)

 

………

 

吉祥寺の僧「文和(1352~56)年中には大友殿から送られた寺領寄進の証文もあったんだからな?…見してやろうか?」(原文:文和年中大友殿より寺領寄進の証文有り)

 

―――――

 寄進

 上野国利根庄青竜山吉祥禅寺

 同庄上川波村 除止々庵断所不二在家二宇 事

右所奉寄進当寺也、任先例令掌之、闢仏法久住之供養、可被専天下泰平家門繁栄之祈祷矣、仍寄進状如件

  文和三年七月廿四日

  刑部大輔源朝臣

―――――

内容…

「上野国の利根庄…青竜山吉祥禅寺にこの上川波村(上川場)をくれてやるよ。あ、でも止々庵の料所んトコ…不二(富士?)の在家二宇は除いてくれよな…他はやるから。そしたら今までどおり仏法がずっと続くように供養したり、天下泰平とか家門繁栄とかの祈祷を頼むで。」

―――――

 

吉祥寺の僧「…と、いう由緒ある寺なのによ~(泣)」

 

謙信「(…うぅッ!?…こんなに長いことグズられるとは……さすがにちょっと悪いコトした気がしてきたな…)」

 

 続いて景虎(謙信)は、高平を通って片品川を渡り、勢田郡生越の長井坂の要害に陣取りました…。

 生越って昔は勢多郡だったんだな~…勉強になるな~。

 

万鬼齋「クソ~!…謙信のヤツ川場は荒らすわ長井坂に陣取るわでやりたい放題じゃねぇか!……このままじゃジリ貧だぜ……仕方ねえ!…降参しよう…」

 

…と、万鬼齋は慈眼寺の住僧に岡谷平内と永瀬伊賀守を添えて使いに出し「謙信の幕下に属したい」と申し入れました…。

 

 使いの僧に対面した謙信は…

 

謙信「あっそ。ならイイんじゃね?」(原文:無相違)

 

…と返答したので、僧は早々に沼田に帰って万鬼齋に報告しました。

 

万鬼齋「よしッ!…助かったぜ!…そうと決まれば明日を待ちきれねーぜ~…とっとと仁義を切りに行くべぇ!」(原文:明日を遅し)

 

…と、200余人を引き連れて長井坂の要害で謙信にあいさつしました…。

 

万鬼齋「へへッ…人質としてウチの和田掃部の娘を差し出しますんで……よろしく頼みますよ~…」

 

和田「……」

 

 それから景虎(謙信)は前橋の城に移ると、近隣の城主――大胡城主の大胡左衛門、膳ノ隼人、新田の由良新六郎、館林の由良新五郎――を始め、東上州の人々――阿久沢左馬介たち――が前橋に出仕したと伝わっています…。

 

 ところで万鬼齋から人質として差し出された和田掃部の娘は、景虎(謙信)からキャーーーー\(//Д//)/ーーー💕

 

………

 

 彼女は謙信が逝去した後、沼田に帰ってきて“和田のたいほう”と呼ばれたそうです…。

「御座を直す」という表現がまたエロイですね~……

 

 つーか謙信て「生涯不犯」じゃなかったんかーい?

 

……まあコレは『加沢記』に書かれてることですからね(笑)

 

 

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原文

天正元年四月十二日甲州武田大膳太夫源晴信法性院大僧正機山信玄居士卒去し給ふ事粗其聞へ有て、此国そゞろに成ければ謙信入道沼田無覚束思食れければ、同年五月藤田能登守信吉に舎弟彦介、北条右近を被差添てぞ居られける、川田伯州は大病其上如何思はれけん浪人して新田郡に蟄居し給けり、猶以境目無心許思召ければ白井城主長尾左衛門尉平憲景入道之以飛札家老も被召呼けり、其状に曰、

 態以飛脚申遣候、少大事之用所候間談合申所候赤見歟牧歟両人に壱人差越可申×××事候間無心許儀には無之候、扨亦信玄果候儀必然候、其故は徳川家康五月上旬にも駿州久能、根小屋始駿府在々打散被引退候を重て乱入之由候、信長も其支度之由×××之内使者当方へ下由之候間定而当秋の調儀可為談合候、其方本意も漸近付候、可心安候、城中江追日存分之侭二候、是亦可心安候、万々使之時分可申候、謹言

  六月廿六日

  謙信

  長尾左衛門どの

とぞ被書たりけり、長尾左衛門も謙信公(「信玄か」卜脇ニアリ)え永禄の頃より領地の内被押領ければ、不斜悦び給て則赤見山城守を春日山え被差越けれ、此儀藤田方へも一井齋入道より告来ければ中山安芸守、尻高左馬介、同次郎父子已下用心厳敷居城をぞ被守ける、吾妻郡宮野の郷猿ケ京の城は関東の大手なればとて御一族栗林肥前守に尻高左馬介を相添てぞ被置けり、抑此用害と申は先年謙信公初て関東え出張之時構給たる用害也、頃は永禄三庚申の年三月の事也けるに彼用害に一宿し給し、其夜御夢を家臣直江山城守を召て景虎語り給けるは、自大キ成殿中に出て黙然として座しけるに七五三の美膳を以我をもてなすに歓しく思て珍膳に向ければ、汁片々有、兎角しける処に口中何とも無して歯欠たり、怪敷思て手の内に吐出て見、之に八枚欠落手の内に持たると見て夢は覚たりと語給へば、流石直江也ければ即座に夢合をぞしたりけり、扨も目出度御夢相哉、まづ御盃を被出べしとて不取敢蓬来にかざり御土器を出しければ、直江謹て被申けるは、今度始関東に御出張の御膳にかたはし有り、其上御歯八枚かけて御手の中に持給ふ事関八州をかたはし御手入との御夢想也と申されければ、景虎公を始伺候の人々一統に感じて御祝有り、謙信のたまひけるは今年庚申の年今日亦庚申の日也、我も申の歳生也旁以宜門出祝の郷なればとて、其名を改んとのたまひて宮野を引替て申ヶ京とぞ被付にけり、音に聞ゆる沼田三十三ヶ所之順礼札所観音此所にも有と聞、門出に起請せんとて参詣し給に誠殊勝の御堂也、仏所に掛置たる札を見給ふに黒染の板に朱漆を以書たる歌有り、

 詣で来て爰は宮野の大場山二世あん楽とちかひ給へや

大永二年三月十八日久屋法珍齋、発知道康齋、小川岡林齋と書付たり、凡関東は大乱にて神仏敬ふ人も無様に聞ゆるに此山中にさへ角殊勝成者如何成者の先祖やらんと所の老人に問給へば、久屋法珍齋と申は沼田先方久屋の齋藤三河太郎殿の祖父、発知道康は発知刑部太輔景行、小川岡林齋と申候は沼田殿の御一族小川河内守秀康と申人の事なりけるが、実子彦四郎出火の難に逢し時酢を作置ける辺を通しに何の報か彼瓶の内に飛入て忽に死けり、家を可継子無して母と妻とを家人共養育して領知を被持けれども今に名跡はなし、近迄は小川が門葉北能登守南将監とて両人大将の様に見えけるが、中頃上方牢人に赤松孫五郎と云者来けるが、此者文武に達し毎物に宜ければ評定の度ごとに孫五郎が異見に不得勝利と云事なければ、自ら大将の様にもてなし今は入道して小川可遊齋と名乗、去る頃御礼申上たる小川が居城の大将也と申ければ、可遊齋上方侍と聞召、京方の事御尋有ん為には専ら宜し吉事也と思召て、赤松殿の累葉たるべし、最小川の名跡と御褒美有て用害へぞ帰し給ふ、其日の午刻斗に猿ケ京を打立給て小川、名胡桃御案内者に立て利根川を越給ひて在々放火して打出給ける、万鬼齋は倉内に籠城して居給けるが無双の用害成ければ謙信公壱万五千人の勢を以稲麻竹囲のごとく取巻責給へ共、容易責入べき様なければ鎌倉坂を打登て青竜山令放火給ふに堂に火を掛けれども不燃附不思議に被思ければ、本尊は如何成仏にて有けるぞと問給へば釈迦如来にてぞ御座と申ければ、本尊を取出し謙信が火を附よとのたまひて本尊を庭中に取出しければ、猛火天に燃上り一時にぞ失にける、痛哉此寺と申は康永二年に鎌倉五山巨録山建長寺より開山勅諡仏種恵齋禅師此地見立給ひ草創の地也、中頃当庄の守護に御座大友刑部太輔殿帰依し給し禅寺也、後住勅謚広円明鑑禅師入唐し給て延文年中帰朝し給しより以来当国無双の霊地也、文和年中大友殿より寺領寄進の証文有り、其文に曰、

 寄進

 上野国利根庄青竜山吉祥禅寺

 同庄上川波村 除止々庵断所不二在家二宇 事

 右所奉寄進当寺也、任先例令掌之、闢仏法久住之供養、可被専天下泰平家門繁栄之祈祷矣、仍寄進状如件

  文和三年七月廿四日

  刑部太輔源朝臣

とぞ書たりける、景虎公は高平通に片品川打渡り勢田郡生越通長井坂の用害に陣取給ければ、万鬼齋もこらへ兼て慈眼寺の住僧に岡谷平内、永瀬伊賀守相添御幕下に属ん事をぞ申入れければ、使僧に御対面有て無相違旨御返答有ければ、早々沼田に立帰此由を被申ければ万鬼不斜悦明日を遅しと弐百余人引連長井坂の用害にて御礼被申上ける、人質に家の子和田掃部が娘を被遣たり、従夫景虎公は前橋の城に移給ふに、近隣の城主大胡の城主大胡左衛門、膳ノ隼人、新田の由良新六郎、館林の由良新五郎を始東上州人々阿久沢左馬介等前橋に出仕し給けりとぞ聞へし、彼和田の娘景虎公の御座を直し給ふ、謙信公御逝去の後沼田に帰り和田のたいほうと申なり。