加沢記 巻之三⑦ 昌幸公子持山御参詣並縁起之事

主な登場人物

真田昌幸

子持山にハイキングに行く。

子持山本山の別当

昌幸に頼まれて子持明神の縁起を話そうとするが…

内容

 今度の章ではタイトルのとおり真田昌幸公が子持山を参詣します!

…って、そのままだし、まあそれ以上のこともないのですが、篠尾(『加沢記』の表記は「笹尾」)在住の自分にとっては思い入れの深い部分ですね。

 

 天正9(1581)年7月中旬…

 

昌幸「おい!…沼田から見えるあの山…「子持山」っつーの?…あの山に登ってみべーじゃね!(原文:子持山へ御参詣有ん)

 

…と、山名(信濃守)と主水、弥惣の父子3人、発知図書と兵庫、中山安芸守と右衛門、鈴木主水、長瀬伊賀守を案内役にして…

…藤田信吉、金子美濃守、渡辺左近に供回り300余騎を連れ、川原左京進、矢野半左衛門尉と一緒に利根川を船で渡り、川田のナントカ猩の薬師を参詣しました…。

 

 それから溝口を通って山に入りました。ここからは笹尾明神の別当が案内人になって山中へ分け入り、御手洗、末ノ瀧、空海の護摩所、大日如来などを礼拝しました…。

 

…それから昌幸は本山に登ると…

 

昌幸「(´◉◞◟◉)……クククココからは前橋、高崎、惣社まで残らず見えるぜ~」

 

藤田(…このオッサン…戦争のことばっか考えてやがんな~…(´⊿)

 

(…この子持山は、のちに北条にとって惨劇の舞台となるのでした…)

 

…その後、昌幸たちは本山明神(子持神社?)へ参詣しました。

 明神の嶽坊に立ち寄った真田昌幸と藤田信吉は、左右に分かれて座ると…

 

昌幸「…ふう…なあ別当さんよ~…この明神の縁起っつーのを教えてくんねーかね~?」

 

…と尋ねると、別当は幣帛を捧げてのたまい始めました…。

 

別当「…さてさて~…この山と申し奉るは~…昔は『武部山』と申けるが~…今この明神がお住みおわしませしより『子持山』と申すなり~…そもそもこの明神と申し奉るは~…」

 

昌幸「ワリぃ、ちょっとトイレ」

 

      終

    制作・著作

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     ⓀⓉⓀ

 

※さすがに最後の昌幸のセリフは冗談ですが……

 

 いつもは出てくるとガッカリな「已下欠文」もココだけは笑いのセンスを感じる…。

 意図的に仕込んだのだとしたら、やはり加沢平次左衛門はハンパない…。

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原文

天正九年七月中旬、昌幸公は子持山へ御参詣有んとて山名主水、同弥惣父子三人、発知図書、同兵庫、中山安芸守、同右衛門、鈴木主水、長瀬伊賀守御案内にて藤田信吉、金子美濃守、渡辺左近御同道有て御供廻三百余騎也。川原左京進、矢野半左衛門尉、利根川を船にて御渡り、川田丶丶丶丶猩ノ薬師御参詣、従夫溝口通に上山し給ひければ笹尾明神の別当先達して山中へ分入給て御手洗、末ノ瀧、空海ノ護摩所、大日如来御礼拝有て夫より本山に登り給へば前橋、高崎、惣社辺不残御遠見有て本山明神へ御参詣也。嶽坊立寄御対面有ければ昌幸公、信吉左右へ分て御著座有て明神の縁起御尋有ければ別当幣帛を捧て一々之を宣たりける。抑々此山と申奉るは、昔はタケべ山と申けるが今此明神御住おはしませしより子持山と申す也、そもこの明神と申奉るは(已下欠文)