『加沢記』禰津助右衛門尉川田在城並信幸公大戸の城責捕給ふ事附一場茂右衛門手柄之事

本文

中山右衛門討死しければ白井長尾の幕下赤見山城守を始め氏直公下知に相移けり、右衛門弟九兵衛尉相戦けるが家人共皆敵方へ心を寄けると承る間早々城を明退き候へと矢澤下知せられければ城を明渡し、名呉桃の城主鈴木主水は姉聟也ければ彼方へこそ落行ける。其頃氏直公は前橋に御着陣ありける折柄なれば五十餘人連判を以て氏直公幕下に可参由、赤見を以て申入たりければ氏直公より赤見方へ御證文を被遣ける。

  各可有忠信由被申合交名書立披見感悦候、走廻り次第任望知行可宛行旨、被仰出者也

   天正十年壬午七月十五日  直氏在判

  安房守奉之

   赤   見   殿

白井長尾の家は鎌倉權五郎景正の後裔長尾弾正より右衛門尉昌賢相續て當代憲景一井齋入道まで十一代相傳て中山尻高は領地なりけるが一井齋入道故連に領知をも取をくれ幕下にも疎まれ、今度中山城へ家臣赤見を被居けるにも氏直公の證文赤見直に頂戴しければ長尾家も十一代にして滅亡無疑と矢澤方の人々は被申たり。五十四騎の連判の者をせんさく有之處に過半沼田地衆川田地衆多く在所退去中山へ隨身の旨申來りければ山名主水發知圖書家人等の行跡不宜期なりければ川田衆も無覚束とて急ぎ上田へ御注進有ければ禰津宮内太輔元直に御軍評議有ければ二男助右衛門幸直は矢澤頼綱の孫聟にて有ければ幸直を可遣とて打立給ふ、白井中山の堺川田の城主山名主水發知圖書は□方より彼所の城主なりけるが今度北條氏直公出張せられ無覚束候旨、薩州被申越侯故御見付賜り候へかしと□し故なりけり同年八月中旬に□□根津を打立給ひければ元直公御喜悦あつて家の子加澤無任入道が弟小林文右衛門尉、差添久保田金右衛門尉、別府宇賀之尉、安中勘解由、水野靱負、白石兵庫介、都合二百餘人を引卒して倉内に着陣ある矢澤の手の者、庄村金右衛門尉、大草杢之介、其外恩田下沼田山名發知長□曲輪邊迄迎に被立向、夫より二の丸北條曲輪へ被相移けり。其頃前橋の城には氏直公の伯父北條安房守氏邦在城して沼田へは小野の邦憲を先陣として富永又七助重、矢部大膳亮、大胡常陸介郡秀、膳の隼人、山上某、齋藤加賀守、須田加賀守、神庭三河入道等を以て可責とて堺目へ出張す。吾妻表へは多目周防守、内藤丹波守、小幡上総介、半田筑後守、富永主膳、同有馬之助、發向す。斯て同年九月内藤丹波守、富永主膳大將にて其勢五千餘騎、大戸口に責入ければ大戸眞樂齋、回但馬守、三の倉表に出向相戦けれども無勢にて不叶手子丸の城へ引籠けるが大勢を以て責ける程に三日の間に被責崩て大戸兄第腹かき切てぞ失たりける、則手子丸の城へは多目周防守、富永主膳相移けり、岩櫃へ可寄と軍議區々なるの由、信幸公聞召て去は敵寄来らざる先に手子丸を可責落とて出浦上総介、木村戸右衛門、前備は鎌原宮内、富澤伊賀守、後備は湯本三郎右衛門、浦野七左衛門尉、殿りは大熊五郎左衛門尉、横谷左近、御馬廻は丸山土佐守、池田甚次郎、春原勘右衛門尉、同惣左衛門尉、同勘次郎、長野舎人介、石井長門、赤澤加兵衛尉、割田下総、白倉武兵衛、佐藤軍兵衛、伊熊孫五郎、同釆女、田中越後守、一場太郎左衛門、同茂助、富澤七郎兵衛、同主計、同大學助、同又三郎、二宮解勘由。御留主居は池田佐渡守、鹽谷掃部介と御定有て、大將は卯花威の鎧に星甲を着、二尺五寸の海野重代備前長光の金作の太刀を佩き、十文字の鑓引提、御馬添に富澤豊前守、小草野新三郎、□□□には唐澤玄蕃允、山越左内、上原淺右衛門尉、馬場角藏思ひ思ひの鎧着て都合八百餘騎、仙人が岩に御着陣有て先手は元丸へ下り寄たりけり、多目富永出勢して一人も不残討取と下知してければ三千餘騎一度にをめいて掛りければ信幸公前備の湯本浦野か勢二百餘人をぬる川を下りに爲引ければ敵勝に乗じ追かけ来りけり。信幸出浦木村は手子丸へ押寄べしと令せられて其身は三百餘騎にて元丸の森の蔭に控給ひければ富永仙人か岩より引返し出浦木村と相戦けり信幸公大熊に百餘人相添、淨土寺へ乗入放火せられ、横谷左近、唐澤玄蕃允に五十餘人相添、手子丸の方へ被遣ければ多目富永諸方より寄来るを見て軍法相違して見へけるが唐澤金の馬鎧を打かけ乗出けるを見てすわや大將真田と見て富永一陣に進て五百餘騎まつしぐらに掛りければ多目も一千餘を引卒し掛りけり、信幸公は森の内より横合に掛り給て切散せは多目富永か勢四方へ打散り終に手子丸へ引籠る、最前浦野湯本か勢を追掛けたる一千餘騎の兵は長追して大戸の平にて合戦しければ籠城すべき様もなく椿名山へぞ引上げり、信幸公は仙人が岩の上、淨土寺の堺内に御旗を被立ければ先手の上総之介、戸右衛門尉大手に掛りをめいて責たりけり信幸公城中を見給に椿名山の邊に旗色見へけるは裏門より落行と覚へたり、旗本の若者共裏門に廻り落人を可討、敵は難所を頼み北の丸には人なし、歩行立にて掛れ掛れと令すれば一場茂右衛門、富澤豊前、佐藤軍兵衛府澤玄蕃允、鹿野和泉、小草野新左衛門、青原勘次郎以下五十餘人靜に岩を傳ひ北の丸に寄ければ按にたがはず番人は一人もなし、皆大手の木戸口へ集り防戦すと見へければ、究竟の處也とて木戸を明て五十餘人北の丸へ押入見ければ小屋小屋火を焼すて飯など割籠に入りて有ければ能時分とて不残食、小屋に火を掛ければ富永多目味方に心替りの者有と云程こそあれ、裏門表門より崩て落たりけり、五十餘人の人々は敵に交り各五人三人討取高名仕たりける中にも一場茂右衛門其年十七なりけるが是は如何したりけん北の丸へ入らずして木戸口にありけるが敵五十餘人に切立られ木戸口を聞き出けるを待請て討ける程に敵十七人伐臥、即ち其鼻をそぎ敵の旗に包て信幸公の御前に披露す、多目富永が五千の兵を八百餘騎にて責崩したる事無雙の御手柄と御父昌幸公聞食て御感不斜、同年十月上旬御出張有て手子丸の次第一々御物語有ければ御喜悦の餘り□□御長刀に先年藤田が進上したる高木貞宗の御脇指を被進けると也。其時高名の面々に御盃並に感状をぞ被下ける。一場茂右衛門若年にて敵の首数多討捕條百餘年の兵亂の中に其類を不聞、猛勇の兵也、今年迄は池田が同心に被預けるが向後は信幸公の御馬廻を被仰付、平川戸に於て十貫文の所御加増御感状に相添られ賜りける、斯て中山城に赤見籠城して氏邦より加勢を被籠置ければ猶も川田表無覚束とて禰津助右衛門尉を川田打出の城に移し、山名は北曲輪へ被遷けり、堺澤へは久保田金右衛門、林太郎左衛門、吉野太郎衛門、高橋右馬允勤番す。高瀬戸の要害には小保方兵部、同半左衛門、同勘解由、同治介、深津次郎兵衛。大竹には鹽野下野、同三郎左衛門、田中甚之丞、小保方大學、同雅楽之介。横子には見城文右衛門、小池織部、田中□右衛門、伊與久市之丞、永井五郎右衛門、□□淺右衛門、被差置ける。

引用元

『加沢記 : 附・羽尾記』 出版者:上毛郷土史研究会

(国立国会図書館デジタルコレクションから)

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