加沢記 巻之四⑥ 信州にて家康公え御礼並上田吾妻御行之事

主な登場人物

真田昌幸

室賀……か

……そうよな

あの男以外

考えられん

この真田昌幸に

刃むかう

バカな男は

室賀義澄(正武)

室賀は

しょせん自分は

真田の敵で

ないことは

知っていた

それは

もちろん

組織力ではなく

室賀自身しか

わからぬ

人間生まれついての

“星”の違いで

あることを

――しかし室賀は

やはり一番で

跳びたかった

内容

 さて、今度の章は…

 勝頼さまが亡くなって泣く泣く織田に付いたのに、信長公も○んじゃって、今度は徳川と上杉と北条が攻めてくる―ッ!…天正10年マジヤバ!!…ってお話です。

 ちなみに前章のラストから時間は遡ります(『加沢記』あるある)。

 

 天正10(1582)年、信長、勝頼がその生涯を終え、その影響で都も田舎も兵乱が止むことはありませんでした…。

 信濃国へは家康と上杉景勝が、上州へは北条氏政父子が出張(デバ)ってきました…!

 

 真田昌幸は…

 

昌幸「…ッ!💧こうなったら家康へ出仕すべえじゃねえ(原文:家康公へ出仕を遂べし)

 

…と、伊奈の御旗本のところへ父子で出仕しました。

 ほかに根津(祢津)、矢沢、室賀、八代、芦田、保科、常田…みんなで伊奈へ出仕して徳川にスジを通しました…。

 

 その頃、家康は秀吉との戦の半ばでありました。国々の地頭は城に引き籠もって我を通し、大身は小身を掠め、強きは弱きを侵し、領地を争うような有様で、片時も合戦が止むことはありませんでした…。

 

 突然ですが、ココで信州室賀の城主、室賀兵部太輔入道義澄(正武)のコトについて話します…。

 

――彼は文武智謀の勇将で、遠く先祖を尋ねれば村上源氏義清の類葉だそうで、祢津宮内太輔元直の嫡子である長右衛尉利直の舅でもありました。――

 

――そして、真田家とは甲府で数代を共にした傍輩であり、心の知れた仲だったのですが…――

 

…昌幸は甲州没落(勝頼の死)の後、信濃の諸城主たちの間で、何をするにも大将のように執り行っており、諸城主一族も万事、昌幸の指図に従っていました。

 

 しかし室賀は…

 

室賀「あン?…真田が大将だぁ💢なんでオレがあんなモンの顔立てなきゃいけねんだよ、アホか」

 

…と、真田がデカイ顔するのに納得いかない様子だったので、昌幸とは疎遠になっていました…。

 これにムカついた昌幸は…

 

昌幸「祢津~…それに矢沢のオジキ~!…室賀のヤロウをシメてーんだよ!…チカラを貸してくれよ~!(原文:何卒室賀を御退治有ん)

 

…と、祢津の家臣である加沢与七郎と別府若狭という知謀の勇兵の力を、矢沢頼綱の仲介で借りることになりました。

 

 加沢与七郎と別府若狭はさっそく、室賀の家臣である室賀九右衛門、松江、堀田たちに寝返り工作をしかけました。

 そのとき、昌幸から別府と加沢へ送られた証文が…

―――――

各以調略室賀家中過半納得令同意候条、寔以忠信之至令感悦候、彼地本意に付而者一所可宛行者也、仍如件

 天正十年壬午四月三日 昌幸

 別府若狭殿

 加沢与七郎殿

―――――

内容「別府に加沢~…オメーらが室賀ンちのテカ(手下)に空気入れてくれたおかげでよ~…ヤツらの半分はオレに付くコトになったぜ~!(ご満悦)…マジ39な!…あのシマが手に入ったらよ~…オメーらにも分け前あてがうから、楽しみにしとけな~」

 

 なお手紙の日付を気にしてはいけない(『加沢記』あるある)

 

 この後、昌幸は同年4月下旬に室賀城へカチコミましたが…

 

昌幸「ちッ…室賀のヤツ、さすがに金筋(キンスジ)だな…簡単にタマは取れねーか…(原文:室賀も聞る兵也ければ、輙く可討様もな)

 

…と居城へ引き籠もりました。

 

 その後は真田も室賀も、互いに相手を倒すべく謀略を巡らせました。

 

 いっぽう上州では…

 

 8月下旬、矢沢薩摩守が出張ってきて、岩櫃に在城しました。

 

 そして沼田城では、氏政により出張らせれらた北条安房守(氏邦)が、猪俣能登守(小野邦憲)をナントカに移しました。氏邦自身は前橋の城に在城しました…。

 

 氏邦は…

 

氏邦「おーし岩櫃も攻めちゃうぜイェイ!!(原文:岩櫃をも可攻)

 

…と、長尾左金吾(憲景)に指示を出し、内藤大和守(昌月)と二手から吾妻郡をたびたび攻めさせました…。

 

 ところで沼田衆のカシラ、金子美濃守は昌幸に属していたので、その時は横尾八幡の要害に移り、富沢豊前守と一緒に籠もっていました。

 割田新兵衛、渡辺左近は加辺屋の要害に、有川庄左衛門とともに籠もっていました。

 市城岩井堂には池田佐渡守、富沢伊予、同伊賀、湯本左京進を…

 柏原要害には植栗安芸、春原勘右衛門尉、中沢越後、荒牧宮内右衛門、桑原平左衛門尉、茂木二郎左衛門尉、伊与久采女、二宮勘解由を…

 大戸口には浦野七左衛門尉、白倉茂兵衛、一場太左衛門、高橋一府齋、赤沢常陸介、川合善十郎を配置し…

 榛名沼峠口では塩谷将監、唐沢玄蕃、富沢又三郎、宮下新左衛門、田中四郎左衛門、伊能ナントカ五郎を“おた沢”という所に籠もらせました。

 須賀波口では湯本、西窪、横谷、鎌原の4人が交代で加辺屋の要害に籠もり…

 長野原城には湯本が居城…

 大道越の栃窪には沢浦隼人、山口孫左衛門、一場茂右衛門を…

 蛾川獄には原沢弥三郎、佐藤三郎兵衛、桑原大蔵、富沢主計を籠もらせました。

 小城(古城)には小草野新三郎、蟻川入道、高山、深井、町田、中沢を…

 嶽山には池田甚次郎、出浦上総之助、割田下総、山田与惣兵衛を…

 成田の要害には割田掃部、鹿野志摩、同和泉、田丸、福田を籠もらせました。

 そして、矢沢頼綱が岩櫃に在城し吾妻を守護したので、長尾と内藤もうかつには勢を出せず…真田勢と北条勢は互いに境目を強固に守ったまま、月日は過ぎていきました…。

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原文

天正十年信長公勝頼公御生涯成ければ都鄙兵乱止事なし、信濃国へは家康公上杉景勝御出張有、上州へは北条氏政父子出張あり、昌幸公は家康公へ出仕を遂べしとて伊奈の御旗本へ父子御出仕有り、其外根津、矢沢、室賀、八代、芦田、保科、常田、何も伊奈へ出仕有て御礼を被申上ける、家康公は秀吉公と御戦の半なりければ国々の地頭御城に引籠り任我意大身は小身を掠強は弱を侵し領地を争ければ片時も合戦止時なし、爰に信州室賀の城主室賀兵部太輔入道義澄は文武智謀の勇将也、遠く先祖を尋るに村上源氏義清公の類葉たり、祢津宮内太輔元直の嫡子長右衛尉利直の姑にて其上甲府数代の御傍輩御知音の中なりけるが、昌幸公甲州御没落以来諸方へ御行有けるに何事も大将の様子に被執行ける、其外の御一族は其通りにて万事昌幸公の御指図を待給ひけるが室賀は一向合点に不入の振合見へれば疎遠にぞ成給ける、昌幸公何卒室賀を御退治有んとて祢津へ御行有て祢津の家臣加沢与七郎、別府若狭と云もの有り、彼ら両人知謀の勇兵也ければ矢沢頼綱を以様々御頼有けるにより室賀の家臣室賀九右衛門、松江、堀田等に行を廻しける、其節別府、加沢へ被下ける御証文、

 

各以調略室賀家中過半納得令同意候条、寔以忠信之至令感悦候、彼地本意に付而者一所可宛行者也、仍如件

 天正十年壬午四月三日 昌幸

 別府若狭殿

 加沢与七郎殿

 

如此御行有て同年四月下旬室賀城へ押寄合戦有けるが、室賀も聞る兵也ければ輙く可討様もなく居城へ引籠り互に討事を計ける。

上州へ八月下旬に矢沢薩摩守殿御出張有て岩櫃に御在城也けるが、沼田城は氏政公より北条安房守出張し給ひて猪俣能登守小野邦憲を□□移し其身は前橋の城に在城して、岩櫃をも可攻とて長尾左金吾に下知せられければ、内藤大和守、長尾両手にて吾妻郡へ度々被寄ける、金子美濃守も昌幸公に属しければ其頃横尾八幡の用害に被移、富沢豊前守と一所に籠る、割田新兵衛、渡辺左近は加辺屋の用害有川庄左衛門と籠る、市城岩井堂には池田佐渡守に富沢伊予、同伊賀、湯本左京進を被籠ける、柏原用害には植栗安芸、春原勘右衛門尉、中沢越後、荒牧宮内右衛門、桑原平左衛門尉、茂木二郎左衛門尉、伊与久采女、二宮勘解由を被籠ける、大戸口に浦野七左衛門尉、白倉茂兵衛、一場太左衛門、高橋一府齋、赤沢常陸介、川合善十郎、榛名沼峠口は塩谷将監、唐沢玄蕃、富沢又三郎、宮下新左衛門、田中四郎左衛門、伊能□五郎おた沢に被籠置ける、須賀波口には湯本、西窪、横谷、鎌原四人にて替ゝ加辺屋の用害に籠る、長野原の城には湯本居城也、大道越に栃窪には沢浦隼人、山口孫左衛門、一場茂右衛門、蛾川獄に原沢弥三郎、佐藤三郎兵衛、桑原大蔵、富沢主計を被籠ける、小城には小草野新三郎、蟻川入道、高山、深井、町田、中沢を被籠ける、嶽山には池田甚次郎、出浦上総之助、割田下総、山田与惣兵衛を被籠、成田の用害に割田掃部、鹿野志摩、同和泉、田丸、福田を被籠ける、頼綱は岩櫃在城有て守護せられければ長尾、内藤も勢を不出して互に境目を肝要に守り月日をぞ過しける。